葬儀の簡略化に我々の心はついていけるものか

このテーマは様々な見方ができるものだと思います。

葬儀の執り行いかたは地域によっても様々なもので、共通の見解というものはないのでしょう。

葬儀は信仰心から行われることなのだと思いますが、日本人がそこまで信仰心を動因にしているかはわかりません。文化と捉える方もあるでしょうか。

現代社会において葬儀の簡略化を目の当たりにし、動揺を覚えた方は全国各地にいらっしゃるのではなかろうか。

葬儀の簡略化に気づく機会はそれほど多くない

身内を亡くすことは誰しもがいつかのタイミングで経験せざるを得ない事ではあります。

身内の葬儀だからこそ、それは実体験として残りますが、縁の遠い人の葬儀に顔だけ出すような場合とは、本人の中でずいぶん意味が異なると思います。

葬儀の全てを経験することは通常それほど多くはないことになります。

そのため、葬儀の簡略化に決定的に気づくのは、10年、20年などの歳月が空いて近親の者の葬儀を経験する時ではないでしょうか。

寝ずの番の省略

地域によっては、通夜の夜に寝ずの番があります。これは、線香の煙を絶やしてはいけないという意味のようで、徹夜して線香を立てて行くわけです。

非常に体力的にはキツイものとなります。近親者が亡くなったばかりなのですからなおさらではないでしょうか。

昨今は、この寝ずの番が省略されていると聞きました。おそらく高齢化と火事を懸念してのことなのだと思います。

代わりに、電化製の線香などを一晩着けて置くことになったそうです。

気持ちが追いつかない

おそらく寝ずの番の意識されていなかった意義の一つは、故人をしのぶ時間ということだったのではないでしょうか。

寝ないで身内同士昔のアルバムなど引っ張り出し、故人の事を良い人だった・・・とか、なんで先に・・・などと言い合う時間となっていたことはないでしょうか。

これはいわば、残された者たちからすると、気持ちの整理をさせてくれる機会になっているのではないでしょうか。

人、一人が亡くなった時、我々は長年多くの時間や労力、そして費用までも割いて弔ってきた歴史があります。

それを経済的感覚からすれば省略・簡素化という方向に走るのは意味が通りますが、しかし、果たして残された者達の気持ちこそ浮かばれずに漂うことになってしまうのではないでしょうか。

葬儀のために財産を崩してしまうというのも考えなければならない深刻なテーマです。新生活運動などはそうしたことからはじまったのでしょうか。

同時に、我々の浮かばれない気持ちにもスポットがあてられるべきではないかと思っています。