最終更新日 2024年4月1日
カウンセリングに限らず、今医療の分野などでも、エビデンスベイスドに対して、ナラティブベイスドという視点が注目されています。
これらは対立するものではなく、相補的な存在とされています。
つまり、根拠に基づくアプローチだけではなく、その人の物語(ナラティブ)も大事にしたアプローチを目指そうとする動きがあるのです。
カウンセリングにおいても、このナラティブの視点が取り入られています。
ナラティブアプローチの観点から現実とは何か
突然ですが、ここで、少し現実とは何か、というテーマに触れてみたいと思います。
例えば、我々が、「これを食べると太っちゃうよね。カロリーが高いから。」といういう時、それはエビデンスに基づいた発言です。統計上、理論上そういうことが言えるのでしょう。
ですが、ある人は、「あれを食べると調子が良くって、からだを動かしやすいんだ。気分よく動いたから体重減ったかも。カロリーばっかり気にしちゃいけないね」と言うかもしれません。(こちらは物語的な発言です。)
これを聞いた、エビデンス重視の人は、「そんなことが起きるはずはない」とお考えかも知れません。
これらは、どちらが事実なのでしょう。
現実は構成される
ナラティブな視点では、後の人が言ったことにも十分に意識を向けます。(科学的な視点を放棄するのではありません)そして、質問したり、もっと詳しい所を聞いていきます。
このようなことを経て、その人にとっての、意味ある現実が構成されていくと感じています。(社会構成主義と呼ばれています。)
ナラティブな視点からは、もしこの人が痩せたいと希望するなら、カロリーばかりを制限する指導はしないでしょう。
なぜそれを食べると調子が良いのか、調子が良いと何をしたくなるのか、自分では何がポイントになると思うか、などと本人の語りに意識を向けて行きます。
もしかすると、制限ばかりを気にすると、ついつい他の物を食べてカロリーを摂ってしまう癖がこの人の場合はあるのかもしれません。
そしてこのようなことを考えながら、出来上がった方法が、その人にとっての減量方法になるわけです。(フィクションです)
物語(ナラティブ)への注目
説明にはあまり良い例ではなかったかもしれませんが、これがナラティブな視点です。
カウンセリングにおいても、ナラティブへの注目は今後増していくのではないでしょうか。(エビデンスを否定するものではありません。)
一つ補足すると、ナラティブという概念は、「体験」という概念に近いものを感じます。その人の物語、ナラティブを理解するという表現からは、生育史などの理解が協調されてしまうように思いますが、それは話の流れで決まってくることと捉えています。
ナラティブな視点をカウンセリングに取り入れると
さて、実際のカウンセリングで、ナラティブな視点・態度はどのように生かされるのでしょうか。
色々なスタイルの人がいることと思いますが、一つ特徴として挙げたいことがあります。
何かの悩みがあるとき、それは良くないことが起きているのだと我々は考えがちです。しかしながら、それは一つの見方であり、もっと別な見方ができるかもしれないものです。
そこで、ナラティブな視点からは、悪いことが起きている(起きた)というよりも、何かの意味があることが起きている(起きた)と捉えることがあります。
当然のことながら、その意味が浮かび上がってくることは簡単な事ではなく、悲しみや、怒りを十分に共有することが必要かもしれません。
ああでもない、こうでもない、と色々な話を進めて行くうちに、おぼろげにカウンセラー、クライエント間の間に浮かび上がってくるようなものです。意味があるなどと強要することとは全く異なります。
その上で、この点に触れてみたいと思います。
1年間のブランクを経験したとき
もし、バリバリと働いている人が、何らかの事情で、1年間の休職を必要としたとします。
仕事に燃えていたその人にとっては、さぞかし苦しい経験になってしまうことが想像されます。早く職場に戻りたいという焦燥感に駆られるかもしれません。
このような場合、休職してしまったことは、マイナスの出来事にしか感じられないと思います。
しかしながら、その1年間に何かの意味があるとしたら、物語は良い方向へ進んでいるとも見えなくはないのです。
例えば、家族との時間を多く持ったことによって生まれる何か・・・
或いは、1年というブランクが生む、仕事上のなんらかの貢献など、それぞれの人によってそこには多様な物語が生まれ出る可能性があります。
ネガティブに捉えれば、「あの1年のために、仕事も家庭も滅茶苦茶になりそうだ・・・」と感じるかもしれませんが下記のようにも考えられるわけです。
- 「あの1年があったから、家族の大切さに気付くことができた」
- 「あの1年休んで自分の専門性の足場を総復習してより確実なものにできた」
つまり、その一見遠回りのような解剖学を学ぶという作業が、実は体を動かす上でも意義深かったということだったのだと思います。どこで何が生きてくるかわからないものです。おそらく調べれば、このようなエピソードは羽生選手以外にもたくさんあるのではないでしょうか。水面下で何が起きているものなのか、他の人には観察できないのです。)
引用:ANNニュースチャンネル 春の園遊会
これは塞翁が馬のような話にも見えますが、単に、ラッキーだったという類の話ではありません。人生において何か重要な示唆を得るような体験だったという方が近いでしょう。なぜそのタイミングでそれが起きたのか、実は何かを得るためだったのかもしれないわけです。(これが目的論的発想と言えるでしょう。)
このように、別な物語として捉え直されたとき、悪い事と言うより、良い事だったのではないか・・と言えるようなこともあるのではないかと、そんな風に感じています。
冒頭でも述べましたが、このようなナラティブな視点は、カウンセリングに限らず、医療や教育の現場でも取り入れられ始めています。当オフィスのカウンセリングにおいてもこの視点を取り入れています。