なかったことにされた思い達

祈り

我々の暮らしの中では、喜ばしいことも起きれば、悲しい事や、苦しいこと、また怒りを覚えることも起きてきます。カウンセリングの中でこれらの出来事が語られることもあります。

我々の人間関係の中では、喜ばしい事や、楽しいことが優先されがちになるであろうことに、多くの人が頷くのではないでしょうか。もちろん、そればかりではないことを多くの人が知っているわけですが、しかし、そうは言っても、怒りや、苦しみは敬遠されがちになるようであります。

それぞれ別々の人生を生きているわけですから、その局面において別々な感情を抱いていても自然な事です。

どちらもその時に大切に扱われたい気持ち

身近なところで就職を例にとると、就職が決まって喜ぶことは、ごく自然なことです。家族や仲間と祝賀会をしているという人もあるでしょう。多くの場合、その祝賀会は華やかです。参加者も、冗談など飛ばし、浮かれ気味な雰囲気さえ漂います。

多くの場合、このような場を持つことで十分に喜ぶということを終えられるのではないでしょうか。

一方、悔やむ必要がある時間を過ごしている人には、人によってまちまちな言葉がかけられたりします。「もっと努力を」と言う人もあれば、「いつまで悔やんでも仕方ない」という人もいることでしょう。

気持ちを切り替えるように言う人が多いように感じます。言っている人からすれば、それは遠回しな励ましの言葉なのだと思います。言われている本人も、悪気がないことは知っているものです。

現代社会では、悔やむことが出来る時間は奪われやすくもある

しかし、十分に悔やむことが出来る機会というのは、少ないようにも感じられてきます。前者が十分に喜んだように、十分に悔やむことは、同じくらい大事なことなのではないでしょうか。十分に悔やむということは、どこか奪われやすい体験のような気がしてきます。

合理的などと社会が主張することがあるように、合理的な方へ、合理的な方へと物事を進めていくべきであるかのような風潮が漂っているためでしょうか。つまり、悔やむ時間はもったいない時間と見なされてしまう可能性があります。

また、悲しみや喜びの他にも、人は様々な感情を体験します。

  • 喜び
  • 悲しみ
  • 怒り
  • 悔しさ
  • 恐怖
  • 不安

これらは、スポットがあてられることもあれば、なかなかそうもいなかいこともあります。ですが、どれも我々が生きる中では自然と体験する感情でもあります。

ちょうど、緑茶の味わいのようでもあります。渋い、苦い、甘いと、決して甘い味わいばかりではありませんがどうしてか長い事親しんでいます。