日常における出会いにカウンセラーは支えられている

日常における良き出会い

カウンセリングでは、週に1回50分、ないしは、隔週、月1回などのように、相談者に合う時間は限られています。

仮に1年間、毎週50分ずつお会いしても、40時間です。それは、2日程度に過ぎません。

もちろん、50分1対1で話をするという特殊性は他になさそうな体験となり得るとはしても、カウンセラーは、相談者の生活の本当に小さな一コマにお会いしていることになります。

このようなことからも、カウンセリングだけで、何かが解決されていくなどという事は、極めて稀なことであるか、または、不可能ではないかと思えて来ます。

カウンセリングが無意味な行為なのではなく、日常があってこそ意味を成す行為とは言えないでしょうか。

つまり、カウンセリング以外の場においても、意識はされておらずとも、心理支援は行われているのです。

日常で出会う人と非日常に棲むカウンセラー

カウンセリングの場・時間は、非日常であると形容されることがあります。つまり、普段の生活とは異なる、特殊な体験を伴う時間と言えるでしょう。

様々な価値観や考え方などありますが、そういったことを越えて、人が話をする場所でもあります。

一方で、日常とは、普段生活している生活空間を指します。(もちろん、カウンセリングの他にも、非日常的空間は存在します。)

カウンセリングのイメージとしては、普段、日常の中で生活している相談者が、何かのきっかけにカウンセリングという非日常的空間に訪れ、そして、日常的空間に戻っていくものと言えるのではないでしょうか。

日常で行われている心理支援

全てを挙げることはできないほどに、多くの支援が行われていると考えています。

例えば、不登校の学生への心理支援を考えた時、まずは学校の教員の存在が挙げられます。教員は、学業への指導を行う存在でもありますが、その学業をとおして、学生が学ぶことは限りなく多く、それは単なる知識に収まりきらないものであると思います。

歴史に登場する人物、実験、法律など、多くの素材を通して、学生は、自分の進みたい進路のきっかけを見つけるかもしれません。また、親身に指導する教員に、信頼感を持つこともあるのではないでしょうか。

これらが心理的支えになっていることは言うまでもありません。教員は、心理カウンセリングを行っているわけではないのに、そこには心理支援が生じているのです。

もしこの教員の存在なしに、心理カウンセリングが開始されても、カウンセラーは、この教員がもたらす心理支援分のことはできないでしょう。

50分しか時間がない中では勉強を教えられませんし、そもそも歴史に興味を抱けるような話をカウンセラーができるとは限らないわけです。できるものではないでしょう。(ここには、教員への尊敬の念がうまれます。)

教員の先生と時に学生が口論するようなことがあったとしても、それは教員が行う心理支援の限界とは言えず、むしろ、口論を通して、学生が得た体験はまた計り知れず、自分の考えを確実なものとする機会となっている可能性もあります。

あの先生の授業だけは出たい、などと考えて登校のきっかけに繋がることもあり得るのではないでしょうか。

そして、日常における心理支援は、この教員との関係だけでなく、あらゆるところに散りばめられているものです。それを担っているのは、家族や、友人、文化などということになります。

このように、カウンセリングは、日常の出会いに大きく支えられているわけです。