ブログ著者:臨床心理士 松田卓也

最終更新日:2025年10月19日

育児疲れから一人になりたいと感じるのは責められることではない

ずっと一緒

どんなに好きな子供であっても、ひたすら育児を続けられるものではありません。誰も働き続けられる人がいないようにです。

一人になりたい時間は当然ある

人間誰しも、その辺りを意味なく歩いてみたり、自分の好きな音楽を聴いたり、何かを食べたり、そんな時間が欲しいと思っての当然のことです。

どんなに好きなものでも、毎食は食べられない

独りになりたいだなんて思うのは、子供への愛情が足りないからではないか?などとご自身を責める方もあると思います。

それを感じるという事は、親の自覚をしっかりもっているということなのではないでしょうか。

しかしながら、どんなにカツ丼が好きな人であっても、毎食カツ丼ではげんなりしてしまいますし、長く続けば体に不調をきたします。

カツ丼と子供を並列で考えることは不謹慎かもしれませんが、どこか通じるところのある話しではないでしょうか。

仏の顔も三度まで

慈悲に溢れた、神仏の類にも限界があることを感じさせる言葉です。

ましては生身の人間においては、限界があって当然です。

  • ねえねえ、お母さん・・・・ねえねえ・・・

と四六時中、毎日こんな調子だったら、はじめは観音様や大日如来のようなお母さんであっても、最終的には閻魔大王のようになってしまうのです。

それが、人間というものです。

動物達も自分の子供に対して怒っている姿をよく見かけるものです。

人間、余裕をなくすと怖くなる

育児から人と気でも離れることに罪悪感を感じる方は、もし可能なら別な発想をもつのも一つです。

自分のために休むのではなく、子供のために休むという発想があります。

人間余裕がないときは、どうしてもぶしつけになったり、イライラするものです。(このイライラした姿を持っていることも実は大事です。子供が人間の複雑で多様な感情を学ぶ上で母親の色々な面を見るのは意義深そうです)

余裕ができると、ニコニコして育児にあたる時間もうまれてきたら、それはお子さんにとって良い事ではないでしょうか。(いつもニコニコしていなければいけないなどということでは全くありません。)

お爺ちゃんおばあちゃんが、いつも孫に寛容で穏やかにいられるのは、たまにしか会わないためです。

安心して夫には任せられない

これも、一つの大きな悩みとなるところだと思います。

誰かに任せたいと思ってはみたものの、安心して預けていられる人や場所が見当たらない内には、心から一人の時間を過ごすことは難しいでしょう。

ここが、現実的なハードルになると思います。

別項で触れていますが、ママ友らとレジスタンスのようにグループを作って、ママ友同士の託児所を作るようなこともありかもしれません。

つまりは、ママ友の会を子連れで定期開催し、順番に外出するというような発想です。

祖父母には用事はなくとも顔を合わせておく

昔、知人からこんなセリフを聞いたことがあります。それは、祖父母に孫をなるべく頻繁に引き合わせておくという類の話でした。

いざ、預けたいと思っても、ある日急にでは、孫との間で間が持たなくなるということを回避するためだったようです。

これは、せっかくお爺ちゃんお婆ちゃんの家に泊まることになったのに、夜中に両親が恋しくなって泣き出してしまう子供がいることを思うと非常に納得が行きます。結局のところ深夜に車を走らせ迎えに行くことになるのですから大変です。

時間が出来たとして何をする?

ここからは人によって趣向が分かれるものです。

自分にとってくつろげる時間とできることが望ましいわけです。人と会うばかりが気晴らしになるとは限りません。誰にも会いたくない時もあるものです。

これは、カウンセリングのテーマになるほどの事柄です。

人によっては、この場合でも「有効に時間を使わなければ」という意識が働くことになるでしょう。

場合によっては、ゆっくりできないか、ないしは自身を追い込む形になってしまう事もある模様です。

直感的に決めてうまくいく方も多いいと思いますが、慎重に検討してみるのも一つだと思います。

まとめ

気が付くと、分刻みの職場のように家でも過ごしていることがあるものです。

そうでなければ回らないという切実な事情があることも事実なのでしょう。

人間、トイレに籠ることもあれば、お風呂に入ることもあります。

はたまた、よくわからない、なんのための時間かもわからない時間も結構存在するものです。

早く布団に入って眠れば良いのに、コタツで1時間も寝ているとも言えない微妙な時間を過ごすこともあるものです。

朝から晩まで、常に何か意味のあることをなさなければならないというのは非常に息のつまることであります。

なんでもない時間というのは、手に入ったならば、自分のために活用してよいのではないかと思いますし、その過ごし方も自由にしたいところです。