気持ちの整理がつかない

思い

最終更新日 2025年1月13日

人は生きる中で、多くの出来事に直面します。楽しいこともあれば、耐え難い悲しみに遭遇することもまた起きうることです。

その際に生じる我々の動揺や混乱は大きく、時に、日常生活上の事を中断せざるをえないような場合さえあります。

しかし、やがてその大きなショックの後に、また日常へと戻っていくこともよくあることです。

整理に時間をかけたい気持ちは認められない?

落ち着かない

しかしながら、そのプロセスは個人個人によって異なるものでもあります。ある人には一時的な混乱を呼ぶ種の事柄であっても、ある人にとっては、存在そのものを揺さぶられる出来事になる可能性があります。

そのため、その事柄に関する気持ちの整理も人によって必要な時間は異なるのではないでしょうか。2週間程度の時間を要する人から、数年かけて徐々にという人も当然あるでしょう。

誰かの死を考えた時にでも、我々は、葬儀を行い、その後にも49日や、1周忌や3回忌などを長い時間をかけて行います。(昨今は段々と省略されることが多いようです。)7年、13年と法事は続きます。かつての社会には、自然と、気持ちを整理する時間が確保されていたのかもしれません。

途切れずに動き続ける社会

このような中で、生まれやすい葛藤は周囲との時間差や、絶えず社会が動き続けているという現実があるからではないでしょうか。

先に整理のついた周囲の人たちは、いつまでもそのことに時間を使っても仕方ないとさえ言うことがあると思います。あたかも、それが悪い事であるかのように聞こえもします。

  • いつまでもくよくよしていては故人が悲しむよ
  • 早く自分の生活を元に戻すことが先決ですよ
  • 終わってしまったことはどうしようもないのですよ
  • こんな時にでも、働いていかなければどうなるのですか
  • 気晴らしでもしてはどうか

このような言葉が、幾つも飛び交うこともあると思います。

時間を必要とする人には、非常に心地の悪い時間となることでしょう。

効率性や経済性が優先されればされるほど、この傾向は強くなるのではないでしょうか。

葬儀の簡略化に気づく機会はそれほど多くない

葬儀の執り行いかたは地域によっても様々なもので、共通の見解というものはないのでしょう。 葬儀は信仰心から行われることなのだと思いますが、日本人がそこまで信仰心を動因にしているかはわかりません。

文化と捉える方もあるでしょうか。 現代社会において葬儀の簡略化を目の当たりにし、動揺を覚えた方は全国各地にいらっしゃるのではなかろうか。

身内を亡くすことは誰しもがいつかのタイミングで経験せざるを得ない事ではあります。 身内の葬儀だからこそ、それは実体験として残りますが、縁の遠い人の葬儀に顔だけ出すような場合とは、本人の中でずいぶん意味が異なると思います。

葬儀の全てを経験することは通常それほど多くはないことになります。 そのため、葬儀の簡略化に決定的に気づくのは、10年、20年などの歳月が空いて近親の者の葬儀を経験する時ではないでしょうか。

通夜の省略

大きな省略では、通夜が行われないようになっているようです。

通夜か葬儀かのどちらかに参列しようという考えはあったと思いますが、そもそも通夜が行われなくなっている模様です。

寝ずの番の省略

地域によっては、通夜の夜に寝ずの番があります。これは、線香の煙を絶やしてはいけないという意味のようで、徹夜して線香を立てて行くわけです。 非常に体力的にはキツイものとなります。近親者が亡くなったばかりなのですからなおさらではないでしょうか。

昨今は、この寝ずの番が省略されていると聞きました。おそらく高齢化と火事を懸念してのことなのだと思います。 代わりに、電化製の線香などを一晩着けて置くことになったそうです。

気持ちが追いつかない

おそらく寝ずの番の意識されていなかった意義の一つは、故人をしのぶ時間ということだったのではないでしょうか。

寝ないで身内同士昔のアルバムなど引っ張り出し、故人の事を良い人だった・・・とか、なんで先に・・・などと言い合う時間となっていたことはないでしょうか。 これはいわば、残された者たちからすると、気持ちの整理をさせてくれる機会になっているのではないでしょうか。

人、一人が亡くなった時、我々は長年多くの時間や労力、そして費用までも割いて弔ってきた歴史があります。

それを経済的感覚からすれば省略・簡素化という方向に走るのは意味が通りますが、しかし、果たして残された者達の気持ちこそ浮かばれずに漂うことになってしまうのではないでしょうか。(或いは亡くなった人の人生を軽んじるという風にも言い換えられるでしょうか)

葬儀のために財産を崩してしまうというのも考えなければならない深刻なテーマです。新生活運動などはそうしたことからはじまったのでしょうか。(参考サイト:新生活運動を推進しております(葬儀の簡素化運動)) 同時に、我々の浮かばれない気持ちにもスポットがあてられるべきではないかと思っています。

モンテ・クリスト伯が確認を付けたかった、ただその一念とは

今度は、怒りや、復讐心について触れます。

モンテ・クリスト伯というテレビドラマがディーン・フジオカさん主演で放送されていました。もうドラマはずっと前に終了していますが、再放送でダイジェストが放映されていました。

復讐に燃える主人公でしたが、そのラストは意外とも言える結末でした。

あのラストシーンを見て、青衣の女人のエピソードを思い出しました。

事情は違いますが、近いものを感じています。復讐を描いた作品であるには違いありませんが、それを挟んで、「あの愛の存在」を確認する物語だったようにも見えてきます。もっとぴったりとした言葉があるのだと思いますが、言い表すことが出来ません。

もしかすると、復讐の方が2番手だったのかもしれません。

もちろん、このドラマは復讐を描かないことにはラストシーンが際立ちません。

余談ですが、モンテクリスト伯の話は、他にも作品になっています。例えば漫画家の和田慎二さんの作品では度々復讐がテーマになり、どうみてもモンテクリスト伯がモデルなのです・

ヒロインが込めた全身全霊の共感

復讐

ラストシーンにおいて、最も得たかった反応が返って来たことによって、主人公の復讐心や怒りは、急速に浄化されるが如く消えていきます。

ヒロインの反応に嘘偽りがあったなら、物語は全く別な破滅的方向へ進んだことでしょう。(カウンセリングで言うところの、共感にも近い反応です。(回答することとは別な応え方が存在します。ヒロインは真正面から主人公の復讐心、傷つきなど含めた全てに向かい合ったとも言えます。なかった事にしたり、無視をしませんでした。)

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主人公が得たかったのは、二人の未来ではなく(過去への未練ではなく)あの愛が本物だったという事実の方が重要だったのではないでしょうか。主人公自身、ヒロインとの未来があるとは考えていなかったと思います。

ですが、この作業を終えないことには、未来へと時間を進めることは難しいように思えます。

簡単に終わりにできない思いがある

「もう終わったこと」、「どうにも取り返しのつかない事」、と周囲はそう言い放って終わりにしたがりますが、本人にとって決して簡単に終わりにできることではありません。

ましてや、主人公が体験したことを振り返れば当然の復讐心と言えるでしょう。先に述べたように、緻密に復讐を描かなければこのドラマのラストシーンは際立たなかったでしょう。

主人公の思いを浄化するには復讐心を辿ることがやはり必要だったのでしょう。

もうどうにも戻すことはできないことが人生にはたくさんあります。

元通りに戻すしか、同じようにやり直す道はないわけですが、それは不可能なことだらけなのです。

しかし、次へと人はそこから歩みを進めることも珍しい事ではありません。

※意見には個人差があります。

果たして、思いが報われた時それは「浄化」のように、きれいさっぱり元通りに戻るものなのでしょうか。

ゲームの世界であれば、リセットすれば元通りになるものですが。

多くの場合、きれいさっぱり元通りになることを願うのが世に棲む人の正直なところだと思います。元に戻せないことを過ごした時、それを身に宿しながら人はどう生きて行こうとするのか、そういうテーマも含んでいるように感じています。

なかったことにされた思い達

我々の暮らしの中では、喜ばしいことも起きれば、悲しい事や、苦しいこと、また怒りを覚えることも起きてきます。カウンセリングの中でこれらの出来事が語られることもあります。

我々の人間関係の中では、喜ばしい事や、楽しいことが優先されがちになるであろうことに、多くの人が頷くのではないでしょうか。もちろん、そればかりではないことを多くの人が知っているわけですが、しかし、そうは言っても怒りや、苦しみは敬遠されがちになるようであります。

それぞれ別々の人生を生きているわけですから、その局面において別々な感情を抱いていても自然な事です。

身近なところで就職を例にとると、就職が決まって喜ぶことは、ごく自然なことです。家族や仲間と祝賀会をしているという人もあるでしょう。多くの場合、その祝賀会は華やかです。参加者も、冗談など飛ばし、浮かれ気味な雰囲気さえ漂います。

このような場を持つことで十分に喜ぶということを終えられるのではないでしょうか。

一方、悔やむ必要がある時間を過ごしている人には、人によってまちまちな言葉がかけられたりします。「もっと努力を」と言う人もあれば、「いつまで悔やんでも仕方ない」という人もいることでしょう。

気持ちを切り替えるように言う人が多いように感じます。言っている人からすれば、それは遠回しな励ましの言葉なのだと思います。言われている本人も、悪気がないことは知っているものです。

現代社会では、悔やむことが出来る時間は奪われやすくもある

しかし、十分に悔やむことが出来る機会というのは、少ないように思えます。前者が十分に喜んだように、十分に悔やむことは、同じくらい大事なことなのではないでしょうか。十分に悔やむということは、どこか奪われやすい体験のような気がしてきます。

合理的な方へ、合理的な方へと物事を進めていくべきであるかのような風潮が漂っているためでしょうか。つまり、悔やむ時間はもったいない時間と見なされてしまう可能性があります。

また、悲しみや喜びの他にも、人は様々な感情を体験します。

  • 喜び
  • 悲しみ
  • 怒り
  • 悔しさ
  • 恐怖
  • 不安

これらは、スポットがあてられることもあれば、なかなかそうもいなかいこともあります。ですが、どれも我々が生きる中では自然と体験する感情でもあります。

ちょうど、緑茶の味わいのようでもあります。渋い、苦い、甘いと、決して甘い味わいばかりではありませんがどうしてか長い事親しんでいます。

とにかく直視すればいいものではない

よくありがちなことに、そのことと真っ向面から直面し続けるようなやり方です。これは時が熟したときにはあるタイミングで意味を持ちますが、決し無理に直面することはお勧めしておりません。直視というのは傷口をえぐるような性質を持っているのです。

とにかく前向きには辛い

無理やり前向きになろうとする

近い発想ですが、とにかく気持ちを前向きにもっていこうとするのも難しい事があります。

あとからドーンと疲れを感じるかもしれません。

気をそらすは、あったら使いたい

コーヒーを淹れる

逆に、気をそらすことは、納得はいかないかもしれませんが、もしあったら使って良いと思っています。一日中働き続けられる人がいないように、一日中直視し続けるのは大変な事です。

お風呂に入っている時間でも、誰かと話している時間でも、一時でも気をそらせるのは必要な事ではないでしょうか。一日で直視するのではなく1週間かけて直視するという手もあってよさそうです。

それは、コーヒーを淹れて飲むくらいの時間であっても貴重な事です。

カウンセリングは、自由に使える時間

このように考えてゆくと、カウンセリングの場や時間は、現代社会において意味を帯びてくると思います。

つまり、日常の中では行いにくいことが、気兼ねなく行える場所であるからです。

時間・料金は決まっていますが、カウンセリングの中では、整理のつかない気持ちについて、十分に労力を割いても自由な時間なのです。

その人に必要な期間、いつまでもそのことに時間を使う事が自由な場所です。正当なことを行っているという意味では、臨床心理士という大学院修士課程をベースとする専門家が担当者であり、1万円の費用を要するという事実の重要性を感じて頂けるでしょうか。

その人にとって、それほどに重要な意味を持っている事柄であると考えています。。

又、言い換えればカウンセリングは、かつての習慣や文化が自然と備えていたことを、形や形式を変え個別に行っていることとも捉えることができそうです。

まとめ

何かの出来事に対する受け止め方は人それぞれです。

また、その気持ちの収め方もそれぞれになります。

葬式で泣いた人、泣きたくても泣けなかった人、どちらもそれぞれなのです。