最終更新日 2025年2月10日
昨今、オールマイティな人材を求めるような風潮を感じます。
話が苦手な人でも、グループディスカッションで早期の段階から教育しようなどという流れがないでしょうか。あたかも、それがクリアできないと社会でやっていけないかのような具合です。
ですが、進路探しはの一つの出発点は、素朴に好きな所からはじまるのかもしれません。
実は、好きな事を追及するとその過程で他の事も自然と習得してしまうことが多々ある
もし、グループ・ディスカッションで発言させたい!と指導者が考えた時、ディスカッションの仕方を教えるのでしょうか。
既に意見を持っている人にとっては、そのノウハウはさらなる強みとできそうですが意見のない内に意見を出せと言われても困りますし、それは形だけになってしまうことになるでしょうか。
また、しっかりした意見を持っていても10回発言しなければならないとしたら困ります。
ぼそっと一言の発言だけで十分の事もあるように、言葉をたくさん並べられることが肝心なのでしょうか。
ハウツーの落とし穴
ハウツー本を探してみると、書店にはたくさん並んでいます。
相当の需要があるのでしょう。
グループディスカッションと同様に、仕方を学ぶことが出来ます。
昨今、古典や文学を教育課程で教えることの無駄のような意見が出ているそうです。それより政治や税金など生活に関係することを最優先すべきだというのです。
確かに、現代において生活を維持することが難しく必要な情報にすらたどり着けないことがあります。それらに辿り着く術を学ぶことは確かに必要ですし、優先順位も高いでしょう。
個人的な意見としては、やはり古典や文学のような無駄とされるものを学ぶ時間はやはり重要ではないかと思うところです。ハウツーの前に、内的な世界を耕し成熟するための時間が必要なのではないかと感じているためです。(古典や文学の授業が本当にそれを担て来たかどうかはわかりませんが、そのような発想は必要だと考えます)
学びの順番は人それぞれかもしれませんが、何かの技術を手にする前に、倫理を学んでいなければ、その技術の活用法を誤ってしまうのではないかと危惧します。
料理人の修行過程を観ていると、就職したのにほとんど料理を作ることがなく、皿洗いや掃除、調味料の補給ばかりでした。場合によっては数年間そんな日々が続き、ある日急に調理に携わるようになります。
あれには、何か料理に携わるものとしての大事なトレーニング要素が含まれているからなのではないでしょうか。
少なくとも、そういう順番の学びを必要としている、或いはそれがあっている人が存在することは確かでしょう。
文学が大好きだった青年は、日本各地をまわるようになり仕事も決まった
例えば、文学好きの青年は本ばかり読んでいて社交性が育ちそうにありません。それに、体力面も心配されることが多いでしょう。
しかし、文学好きが徹底されると周辺のことにも意識を向けざるを得ない時期がやってきます。
本を読み終えたら、その作者のことが気になったりするものです。すると、出生地や物語の舞台となった土地などを巡礼したくなるものです。
その際、車が必要と感じたり、新幹線の時刻を調べたり文学とは全く無縁の事をはじめます。
そして歴史を学び、記録の術を検討し、わからないことをどこかに学びに出ます。そして仲間に出会うなどもあるわけです。
この過程を経て、青年は仕事としてもこの関係の道でやっていきたいと考えたのです。
こうやって人の興味関心は段々と幅を広げていくのですから、好きなものというのは見つかったら貴重な存在と言えないでしょうか。
仕事にならなかったとしても、心の中に大事な物を宿したわけですから、それが人生の支えになって困難を越えて行く手助けをしてくれることもあるものではないかと思う事があります。
人生に必要な事は全て砂場で教わったなどというタイトルの本がヒットしました。
砂遊びに就職とか社会に必要な意味があるなんて考えていません。ただ砂の触り心地が良いとか、穴を掘るのが楽しいとかで夢中になっていただけなのです。来る日も来る日も山でも作っていたことでしょう。
- 該当著書(AMAZON):人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ (河出文庫 フ 2-2) 文庫 – 2016/3/5
ミニエッセイ ある青年の後悔
さて、ここである話を紹介したいと思います。(フィクションではありますが)
その青年は中学生までファミリーコンピュターが大好きで、毎日数時間もプレイしていたと言います。スーパーファミコンも手にして、片っ端からあれもこれもと手を出したそうです。
人生にはこれだけあればいい・・・と思うくらいでした。
しかし、周囲はそれを黙って見過ごすことはありませんでした。母親は担任の家庭訪問の日に仕切りに訴えかけやめさせようと画策しましたし、父親も小遣いを止めるなどと言い出したのです。
残念ながら、それらのワンダフルな時間は奪われてしまったのです。
時は流れて大学生となったとき、青年はアルバイトに出ました。根っからの不器用でどのバイトも務まらなかったそうです。
そんなとき、自分はゲーマーであることを思い出し、その手の店員ならできると面接を受けたのでした。
しかしながら、もはやスーパーファミコンに興じる人は少なく、セガサターンやプレイステーションがマーケットの主題になっていたのでした。
そんなとき青年は、ゲーマーを貫いていればここでバイトができたのにと後悔したそうです・・・
母親たちは、バイトもろくに務まらないのかとはじめは怒っていましたが、ゲームを奪ったことが過ちだったのではないかと思い始めたというのです・・・
後書き
さて、こんな話が現実にあるかどうかは分かりませんが、どうせ何もできないなら一つくらい好きなものを続けていたら良かったのに、というそんな話です。
もちろんゲームを奪われたことによって、別な経験も積んではいるはずですので、どっちが良いなどと簡単に言えるものではありません。多くの場合、母親ならばやめさせようとするものですから悪い母親だなどと言っているのではありません。
いつどんな知識や経験が生かされるかは10年もしてみないとわからないこともあり、何が無駄なのかは本当に難しいところです。
まとめ
社会復帰を考える時、トレーニングが真っ先に思い浮かべられるかも知れません。もちろんそれは意義のあることですし、否定するつもりなどありません。
また、素朴に好きな所から活動をはじめていくのも自然ではないかと思います。
後になって振り返れば、それらは自然とリハビリにもトレーニングにもなっているものです。
カウンセリングでも、このような視点は大事にしているつもりです。