時にはなぜか、どこかに出かけたいというように、誰しも自分だけの時間が欲しいと感じることがあるかもしれません。
その背景は様々だと思いますが、前向きな意味でそういう時間を捉えるのも良いのではないでしょうか。
自分だけの時間が欲しい
いつも仲良く過ごしている人が、自分だけの時間が欲しいなどと言いだすと、周囲としては寂しい感じがします。
ショックを受けることもあるでしょう。
自分だけの時間とはどのような意味を持つものなのでしょう。
幾つかの場面を想像してみようと思います。
生活に余裕をなくしているとき
これは割と想像しやすい動機ではないかと思います。
育児や介護、仕事に追われてくるとずっと走り続けているような心地になるものです。
そんなとき人は、一人の時間を必要とするのかもしれません。
これは、放棄するという意味ではなく誰しもそういう思いに駆られるものなのではないかと思います。
どんなに忙しくとも、着実に年齢は重ねてゆくので、時には自分はどう人生を進めていきたいのか、そんなことに意識を向けたくなるということもあるでしょう。
家族の事ばかりで自分の事を考える余裕がない
何かを考えたい
考えたい、という言えば少し前向きに聞こえるでしょうか。
では、「何かを悩みたい」と言うと<悩むって能動的な行為なの?>と不思議に感じられるものです。
確かに、悩みには苦痛が伴うのでそもそも悩みたくないというところが人間の本音のところかもしれません。
一方で、「悩みが生み出す何か」という視点もあります。
文豪がホテルの一室に缶詰めになって執筆活動に勤しむドラマを見たことがあります。
創作活動などはとりわけ夜中の寝静まったころに行われると聞きます。
自分でも何に悩んでいるかわからずもやもやする
思い出に浸りたいとき
少しロマンチックな視点からすると、人間何かに浸りたい時がないでしょうか。
例えばそれが失恋の記憶であっても、時々ぶらぶらとしながら思い出したくなるものです。
これは周囲には説明がつかないかもしれません。
そうではなくとも、思い出の場所を訪れてみたくなることはないでしょうか。
別にそこに足を運んだからといって、屋台が並んでいるわけでもないのにです。
気持ちの整理といえばそうともいえますし、何かに対する祈り、お詫び、鎮魂・・・そんなことも含まれているかもしれません。
一応人間社会の中で生きて、そこに合わせて動いていますが、何から何まで説明のつく動きかといえばそうでもない性質の行動も結構あるのではないでしょうか。
ただ一人でいるだけ

ただ一人になりたい、別になんでもなく、ただ一人の時間を過ごしてるだけ、そういう時間でもありだと思います。
これは存在の究極体なのかもしれません。全てを赦されたような気持になります。
現代社会に身を置く中でいつの間にか私たちは、何かを成し遂げなければと、すべてに意味をもたせようとしてしまっているのでしょう。
実は、これはさくらももこさんの作品が出典なのです。
コジコジ おそらく40話
自己調整
これは少しもっともらしく聞こえるでしょうか。
調整です。
ピアノの調律を思い出すとどうでしょうか。時々は調律しないと微妙に音がずれてしまうのです。もっとわかりやすいところなら各種メンテナンスです。
銀行のATMでも時々使用できせん。あれはメンテナンスなんだそうです。
カウンセラーの間に伝わる昔話にもこれに近いものがあります。
誰も観ることができない無観客・無配信ライブは、カウンセリングにおいても示唆深いことだった
カウンセリングという場は、一人ではないが活用の趣旨は合っているかもしれない
カウンセリングは、その人だけのためだけの時間と説明することがあります。
もちろんカウンセラーが同席しているので、一人の時間ではないのですが、場合によってはそういう場をご希望なのかもしれません。
上記に挙げた、悩みたい、考えたいという場合にはカウンセラーを前にしてというやり方も成り立つでしょう。
カウンセリングではその人の体験の流れをなるべく阻害しないように傍らにいようとしているのです。
その人の物語をお伺いするという行為が、カウンセラー仕事の一つなのです。
そしてカウンセラーはいなくなった
まとめ
以上、一人になりたい気持ちからカウンセリングの活用まで概観してみました。
ここには入りきれない背景事情たくさんあると思います。
個人的には、さくらももこさんの作品が心に残っています。
自分で自分を窮屈にしてしまうこともあると知ったのでした。
