自分でも何に悩んでいるかわからずもやもやする

はっきりしない気持ち

最終更新日 2025年3月24日

カウンセリングにおいて、悩みがはっきりしないことは当然ありることだと思っています。このようなカウンセリングにも意味があるのでしょうか。

ご本人がお越しになる意思をもっているならば、有意義な体験になる可能性を持っていると私は思います。もやもやの意味が徐々に意識されてくるなどのこともあり得る話だと思っています。

カウンセリングでは、例えば明確に、母との関係に悩んでいて・・・というように相談内容が意識されることもあれば、何か気持ちがもやもやするので・・・というような場合もあり得ます。

また、母との関係のように内容がはっきりしている場合でも、あとからテーマが変わっていくことも稀ではありません。

何に悩んでいるかわからないままカウンセリングに行ってもいいのか・・・

行ったり来たり

しかし、よくわからないままご相談にお見えになったかたの心情としては、60分もの間、何を話して良いものか、その点が心配になられるのではないかと想像します。

相談の予約をしておいて、「相談の内容が自分でもよくわからない・・・とそんな風なことでも良いのだろうか。」と感じていることもあるかもしれません。

実は、カウンセリングは、実は話をするためだけの時間ではありません。

そこでどのようなことを体験するかという点が重要とされます。

時間やお金がもったいないのでは

この点は切実だと思います。仮に相談に行っても、何も話せなかったら、それは意味のあることなのか?お金の無駄になってしまうだけではないかとこのようなご懸念も当然のことだと思います。

ましてや、1万円以上もするカウンセリングですから、簡単に決められることではありません。

悩みがあるという時、それは当然の事と捉える人もいれば、自分だけ悩んでいると感じる方もあることと思います。

もちろん悩みは実体があり存在するものですが、時に我々は実体のない事に悩まされたり、悩むこと自体を良くない事と捉えることがあるものです。

悩むことは日本社会では無駄とされ許容されにくいのか

悩んでいるとなぜか怒られることがあります。悩んでいると口にしないでも、表情が暗いなどという怒られ方を経験した方もあるくらいでしょう。

いつでも爽快な表情でニコニコしていられたらいいのかもしれませんが、人間はそう単純にもいきません。

誰だって悩むことぐらいあって良いはずなのですが、なぜかあまり寛容ではないようです。

実は皆なにかに結構悩んでいる

我も人なり、彼も人なりというような言葉がありますが、私が悩むなら、同じ人間の彼でも悩むことはやはりあるのでしょう。

しかし、これはどこか確信を持てなくなったり、自分が情けなく思えるものです。

しかし、それでも彼も悩んでいるはずです。

日本社会における一つの苦しさは、ここにあるように思います。

自分だけが苦しい思いをしているという意味ではなく、自分だけ悩んでしまっているという感覚がその人をさらに追い詰めてしまっているわけです。

このとき、元々の悩みに上乗せされて二次的に生まれる悩みが重くのしかかっているのです。これは実体がない方の悩みと言えるでしょう。

ところが、実体がないとはいえこの悩みは巨大になりがちで、圧迫してきます。

自分は一体何に悩んでいるのかを整理するだけでも、実体のない方の悩みは小さくなってくれることもあるようです。整理は難しいにしても、「実は最近悩んでいて・・・」などという知人のセリフをどこかで耳にするだけでもほっとできるかもしれません。

井戸端会議や噂話と言うのは、もしかすると、こうした悩みを低減するために行われている面もあるのかもしれません。

では悩む能力、機能はなぜ備わっているのか

悩む時間が無駄であるという場合、浮上する疑問はその存在意義です。

江戸時代にも悩んでいる人がいましたし、古代の人間もきっと悩んでいたはずなのです。人類の歴史は悩みと共に進化してきたと言っても間違いではありません。

もちろん悩まないスタイルの人もいるのでしょう。

ですが、悩むスタイルの人がいけないということではありません。

月並みではありますが、じっくりと悩むことで良い決断をすることができたり、何かを生み出すこともあるわけです。苦しさを伴うところが大変なところではあります。今期のある人しか長く深くは悩めないという風にも言えます。

これはある種カウンセリング的な発想でもあります。もちろん、繰り返しになりますが悩まない人を否定する者ではありません。

余談

少し違う話に聞こえるかもしれませんが、山口県に「三年寝太郎」の昔話が残っています。

いつも眠ってばかりいた寝太郎ですが、ある日突然活動を始め村を救ったのです。

どうやら、三年間皆を助ける方法を考えていたようなのです・・・

この話、悩むことを肯定する側面があることと通じるところがないでしょうか。

日本社会では、他と少し違うやり方・在り方をすると異端者扱いされてしまうところがあります。本質なんてどうでもよいことであるかのようです。

関連ページ 山陽小野田市寝太郎のおはなし

カウンセラーはどんな態度になるのか

このような場合、実際に、カウンセラーがどのような態度をとるのか、それはわかりません。 相談の内容がはっきりするまで時間を置いて予約を勧める人もあると思います。

その他、取りあえず、言葉以外の方法ではじめるカウンセラーもいれば、沈黙を続ける人もいるでしょう。 さすがに60分の沈黙はいかがなものでしょうか。

また、はっきりしない内は、日頃の様子など伺いながら段々という場合もあります。 カウンセリングにおいて最も重要と考えられることは、安心感だとすれば、少なくとも、相談内容がはっきりしないことが悪い事とは捉えない態度が必要だと思います。

もしかしたら、誰かに話すことにためらいを感じている部分が大きいのかもしれません。それならば尚更に、早急に相談内容をはっきりさせてなどいけないと感じます。

又、色々なことをああでもないこうでもないと繰り返すうちに何かが見出されていくこともまたあるものです。

まとめ

ひとまずお越しになられるのであれば、「悪い感じはしなかった」、「いろいろ自由に話せた」などという体験が得られたなら良いと考えております。

分析することをカウンセリングのイメージとお捉えになっている方も多いと思いますが、必ずしもそういうものではありません。

滅多に耳にする機会はありませんが、「せっかくの悩み」とか、「せっかく悩み始めたんだから」という言い方もあるものです。