世の中には様々な支援もあれば、サービスが存在します。
それらを一つ一つ明確に、違いも含めて認識している人はごく僅かか、ほぼいないと考えたほうが自然でしょう。
心理支援に関しても、知っている人は専門家より詳しいこともあれば、大きく誤解されていることもあります。
カウンセリングは強制されるべきものではない
カウンセリングには様々な誤解が付きまといます。
その誤解も含めて、どんなイメージでも投げかけてください、と言えたらかっこいいのかもしれません。
世間や周囲がどのように認識しているかを知ることも、時には必要なことなのかもしれません。
今回、特に主張しておきたいのは、強制されるべきものではない点です。そのほか周辺の事情にも触れていきます。
オカルト扱いされることもある
これほど情報化社会になったとはいえども、オカルト分野の事として認識されることがあります。
カウンセリングの本を図書館で探そうとすると、オカルトのコーナーにまとめられていることがあります。
確かにそこで目にする本のタイトルは、なぜこれが?と考えこむようなタイトルの場合があります。(例えば個性化とマンダラ、ユング心理学と錬金術など)
しかし、他の歴史学や経済学の本がしっかりと一角をその関係の本の場所として収納されているのに、なぜ心理学系はこのような扱いなのでしょう。
エビングハウスが言うように心理学の学問的歴史は確かに短いので、他の学問よりももしかしたら出版されている本の数が少ないという理屈はもしかしたら妥当なのかもしれません。
実は、教育関係の本の中に心理学の本が埋もれている場合もあります。それらの本を一堂に集められれば、心理学のコーナーを作れるくらいの数にはなるとは思うのですが。
心理学系の書籍をそもそも読もうとする人は、我々が考える以上に少ないのかもしれません。
これはカウンセリングに対する世間の認識を考えた時、少し納得する気がします。
まずは心理テストを思い浮かべる人は少なくはないはずです。
その類のイメージを持っている人もいれば、「催眠」をカウンセリングそのものだと考えている人も多いように思います。
催眠の専門書は、数多く存在するのですが、学問としてではなく書かれた催眠の本も数多くあり、それらは書店のオカルトコーナーに並んでいます。
学問としてではなく、どこか娯楽や、サブカルチャー風に捉えているということなのでしょうか。うさんくさくて当然であるかのような扱いです。
反省の場所と思われている節が強い
またこれも根強いイメージの一つです。
「問題の人」だからカウンセリングルームに行けなければならないというイメージです。
「カウンセリングを受けるべきなのはあの人のほうでしょう!」などという言い回しは巷で何度も耳にした記憶があります。
つまり、それは問題の人は自分ではなくあの人だというために、カウンセリングという言葉を使って説明しているわけです。
これは、正式なカウンセリングの意味からは大きく外れた使い方と言わざるを得ません。
カウンセリングはその人の在り方を尊重・肯定する場であり、追い詰めるように反省させる場ではありません。
- 関連ページ:誰かにカウンセリングを勧められたときに考える事
組織内でも、「受けるべき人」という使い方をされていることがある
確かに、使い甲斐のある状況にある方は一定数存在することはあるかもしれません。
しかしながら、「受けるべき」となると強制力を感じます。それに、自分とは違ってあの人は問題の人なのだというニュアンスをやはり感じ取ってしまいます。
社内制度として、「〇〇な人は必ず一度社内カウンセラーを利用してください。」などと決めている組織もあるかもしれません。
この場合、ある人たちにとっては義務ということになってしまいます。
義務とするならば、せめて別な名称を使ってはどうか
例えば、大量の離職者が出ている職場において、その離職予防のために心理カウンセラーを配置したとします。
希望性に任せていると、申し込みは皆無であるかもしれません。
そのようなとき、退職前には、その意思を確認するため必ずカウンセリングを受けることなどとしてしまいたくなるかもしれません。
実は、専門家としてこの義務化されたカウンセリングには大きな抵抗を覚えます。多くのカウンセラーがそう感じるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。
せめて、本来のカウンセリングではないというように名称を変更するのではどうなのでしょう。
つまり、退職前面談などという具合にです。
単に、言葉が違うだけということのようにも思いますが、カウンセリングの強制というところには、何度も言うようですが大きな抵抗を覚えるのです。
義務の新人教育プログラムのという響きからはカウンセリングを想像しません。しかし、臨床心理士がそれに関わっていることはよくあるものです。
例えば、我々は「心理教育」と「心理面接」を分けて考えてきたものです。
本当にカウンセリングが必要な際に、「それならもう行った」、ということにならないのだろうか
仮に、かつてのカウンセリングイメージが散々なるものであった場合、もう二度とあんな場所には行きたくない、というイメージが後々まで残る可能性はないでしょうか。
強制されたカウンセリングとそうでない場合とでは、雲泥の差と化すことがあったとしても、かつての強制されたイメージが残っていては、そもそも自発来談をしようなどとは思わなくなってしまうという危惧を感じるわけです。
手垢がついたとでも言ったらわかりやすいでしょうか。
カウンセラー側が、組織の期待に応えようとしてしまう構図になりかねない
もう一つ触れておきたいことは、カウンセラー側の態度です。
カウンセリングは強制できるものではないなどと謳っているカウンセラーであっても、いつの間にか来談を強制するかのような態度を知らず知らずとってしまうことがあるように思います。
つまり、「カウンセリングは長くかかるものですよ」とか、「続けないと起きる変化も起きませんし・・・」、「〇〇さんもあなたのことを心配しているようですよ・・・」などと引き止め、延ばすようなことを言ってしまうわけです。
この引き止める背景には、いったいどこを見てカウンセリングを行うべきかを見失ってしまった可能性があります。
このような構図の中でのカウンセリングでは、そうした現象が起きやすくなるといいたいわけです。
まとめ
どうしても、カウンセリングへのイメージはネガティブなものが払拭しきれません。
もはやこれは数十年以上続いています。
もしかすると、これは今後も変えようがないものなのかもしれません。(少なくとも大転換は起きない)
だとすれば、いつの世にあっても、悪戦苦闘しながらでも、カウンセリングを続けていこうとする心理カウンセラー側の一貫した態度こそが、磨かれていくべきという風にもいえるかもしれません。
また、「強制」がはびこるというならばその背景には、カウンセリングによる短期的な成果が示されてこなかったという、社会側のいら立ちの結果という風にも取れる気がします。
つまり、カウンセラーにはたゆまぬ精進が求められるという話に帰結します。
