最終更新日 2024年10月6日
日本において、カウンセリングは段々と認知されて始めていますが、多くの場合未知の分野と感じる方がほとんどだと思います。
そのため、「カウンセリング」という言葉自体の定義が人それぞれのイメージで用いられていることもあります。
そのような中、ある時誰かからカウンセリングを受けるように勧められることがあるかもしれません。これをどう考えたら良いのでしょうか。
カウンセリングを勧められたらどう捉えるか
カウンセリングは、その人がモチベーションを持って自らの意志で行ってみようとするとするとき、確かに有益な結果につながることがあります。
しかしながら、不本意に強制されるようなカウンセリングは成立そのものが難しくなるものです。
カウンセリングに行くということの難しさ
多くの場合、カウンセリングのその場へお出向きになることは決して簡単な事ではありません。
カウンセラーが一体どのような人物なのかもわかりませんし、知っているような人であっても、もしかしたら怒ったりするのではないかと様々な想像が掻き立てられるものです。
そのため、カウンセリングに行こうとする気持ちが固まるまでには様々な心理的葛藤があることを承知しています。
当オフィスがカウンセリングを軽々しくお勧めしていないという態度をとっていることの一つに理由にも挙げられることです。
カウンセリングを受けた方がいいんじゃない?と軽く勧める人もいる
上に記したように、人によってカウンセリングイメージはまちまちです。
気軽に使えばいいと思っている人であれば、軽く他人に勧めることもあるでしょう。
これは親切心なのかもしれません。よく引き合いに出されるのはアメリカのことで、映画のシーンにも頻出するように日常の会話にセラピストが登場するのです。
「アメリカなんかでは普通の事なんだしー」とそんな勧め方をされることもあるでしょう。
しかし、勧められた側のカウンセリングイメージが同じか近いものとは限りません。
中には、嫌な思いをして傷つけられる結果を招いてしまう事もあります。
けなされた
そんなつもりはなかった・・・とはおっしゃると思いますが、カウンセリングを勧めることがその人をけなすことになる場合もあります。
これとよく関連するイメージは、「性格を直す場所」というカウンセリングイメージです。
何かが出来ていない問題の人と見なされたとの印象を彷彿させる
上記と近い話ですが、カウンセリングを勧められることで「自分には何かが欠けている」とか「自分は何かいたらない」、「問題人物である」と見なされているのではないかという印象を彷彿させてしまう事があります。
これは言霊のようなものであり、日本の文化や歴史の中で作られてきたイメージの集合体なのでしょう。カウンセリングという言葉を使ったとたんにそれらが活性化してしまうのです。
そもそも人から指摘されたことはだいたい嫌な気持ちがする
実を言えば、カウンセリングに限らず人から何かを指摘されたり提案されることは嫌な気持ちを作り出すものです。
「提案」を全部嫌な気持ちがするというのは言い過ぎですが、やはりその人の在り方に「けちをつけている」ような体験を生んでしまう可能性を持っているのだと思います。
ことさらカウンセリングを勧めるという場合には、繊細な配慮が必要だと思います。
医師に勧められた場合
これも割とよくあることで、薬主体よりは対話を通して気持ちを整理した方が良いのでは?などと医師が考えた際にカウンセリングが提案されることがあります。
これは別項をご参照下さい。
自分で決めて良い、活用するもの
カウンセリングに行くか行かないかは自分で決めて良い事です。
もしかすると既に、「〇〇に該当する人はカウンセリングを受けるように」などという組織内の流れが出来上がっていることもあるかもしれません。
しかしながら、カウンセリングは自由な意思のもとに行われるべきものであります。
そしてカウンセリングは活用するものです。
今のご自身の生活に何か新しい視点を見出したいとか、気持ちを整理したいというとき活用するサービスといえます。
まとめ
カウンセリングはお越しになったその人のためだけの時間として確保されるものです。
その人の駄目な所を指摘して直す場所などとは捉えておりません。
一つには自由な語りの中で肯定的に自分自身を捉え直し、新たな自己理解をする場であるなど、少なくとも当オフィスにおいてはカウンセリングをそのように考えております。
カウンセリングを受けない・やめる権利を大事にしています。
もし行ってみようというお気持ちの場合になられたとしても、どう探していいものか迷われると思います。下記も参考になるかもしれません。