ブログ著者:臨床心理士 松田卓也

最終更新日:2025年11月11日

人は、現実をどう受け止めるのか!?本物のコーヒ―に拘る人が迎えた物価高の衝撃

ドリップ式

仕事の合間や朝方、コーヒーを淹れて飲む方もあるでしょう。

その際、どうしてもインスタントコーヒーでは納得いかない方もあるものです。

長年の習慣で・・・ということもあります。

本物に拘りたいが、現実に直面すると妥協も必要かと嘆きつつ、受け止めることもある

人にはどうしても受け入れがたい現実があるものです。

しかし、それらは時に、ふいにやってくることがあります。

例えば、ペリー来航が武家の世を終わらせました。(養老孟子先生によれば、別な観点から言えば終わらせたのは自然災害の安政の大地震であった)

明治に入っても、髷を結って、帯刀していた人もきっといたのでしょう。

しかし、ほぼすべての侍は、新たな生活様式へと移行していったのです。

そこにどれほどの心理的葛藤があったのか、それは学校の歴史の教科書には書かれていません。

本物のコーヒーにこだわる人

今回は、概ねコーヒー好きの人を題材にしました。

おそらく、無類のコーヒー好きの方は、ドリップ式でなければ飲まないくらいのこともあるのではないでしょうか。

職場に無料でコーヒーが備えつけられていても、わざわざ自分でお湯を沸かしてコーヒーをドリップで入れるのです。

まわりからするとお金がかかって、もったいないと見なされるかもしれませんが、

それでも拘りたいこともあるものです。

本物のコーヒーでないと一息ついた心地がしないということもあるでしょう。

身近なコーヒー類

さて、身近なコーヒーには幾つかあります。

①喫茶店の珈琲

最近純喫茶は少なくなってしまいましたが、喫茶店に入って飲むコーヒは500円くらいはかかります。

昨今、それでも足りないかもしれません。

②スタバの珈琲

次に、チェーン系カフェの珈琲です。スタバで380円くらいです。

③自分で淹れるコーヒー

豆から買うか、またはドリップ式の珈琲でも異なりますが、職場で豆から淹れる人は個人事業主位に限られますでしょうか。

ドリップ式もほとんど見かけませんが、こだわりを持つ人は、せめてドリップ式としたいところでしょう。

※個人事業主はコーヒーをがぶ飲みする傾向がないでしょうか

関連ページ:ストレスも一杯!個人事業主の自己管理は難しい

④粉のインスタントコーヒ

とにかくお手軽です。お湯さえわかせれば良いのですから。

⑤その他、缶コーヒーなど

コンビニでもコーヒーが売っています。一杯140円(税込み)です。自販機では190円のコーヒーも見かける世の中になりました。

物価高の到来

粉末式

さて、物価高の波はコーヒー価格にも決して無縁ではありません。

じゃんじゃん値上がりしているように見受けられます。

このような圧倒的な現実をつきつけられ、コーヒー好きの人はどのように受け止めるのでしょう。

こだわりを捨てた人もいるのかもしれません。

それもそのはずなのです。③のドリップ式では10杯350円くらいになります。

しかしながら、④の瓶詰で良く売られている粉のインスタントであれば500円程度で、なんと160杯分淹れることができるのです。

この現実に直面したとき、人はどのような選択をするのでしょう。

人は様々な形でそれと対峙するものです。

実は、本物をいくつも棄ててきたが、それでも拘りは残っている

寿司に入っているあれはどうでだろうか。もはや名前さえ思い出せなくなっていますが、必ず緑色のギザギザしたものが添えてあります。

お弁当にも入っています。

調べたところ「バラン」というそうです。

これだけ合理化された世の中になっても、あれはついてきます。

「仕切り」としての機能がそもそもであった模様ですが、現在はプラスチックですから、あんなふうに植物であるかのようにする必要はないのです。しかし、それでも何かの葉であろうとしています。

これは、せめてものこだわりの形なのでしょうか。

関連ページ:便利さを手に入れることは何かを失っている側面も持っている

執念を感じる

これは執念でしょうか。そもそも、カップらーめんとか、缶コーヒーという時点で、猛烈な執念を感じるのです。

何しろ、山登りの山頂でもそれらを食べ、飲むことが可能なように設計されているのですから。

その本物へのこだわりは、日本人そのもののように思えるのですが、いかがでしょうか。

もちろん、山頂でこそドリップ式でないと気が済まない人がいることもわかります。

望郷?なのか、それともプロ意識なのか、あるいは購入者が納得しないということへの恐れからなのか、日本製のものには猛烈なこだわりを至る所に感じるのです。

それらがなくなった・使えなくなった時、人はどう現実を受け止めるのか

ここが、今日のテーマの本質部分になります。

コーヒーをいつでも、ドリップで淹れている人が、経済的な現実に直面したら、いったいその人はどうするのでしょう。

ドリップをやめるでしょうか。先ほどのように、粉末の方へゆくのでしょうか。

かつて人気漫画のキャラクターに、貧保耐三(びんぼたいぞう)なるキャラがいたことを思い出します。

彼の場合は、目に入る全面だけを整え、背面はむき出しの状態となりました。

つまり、形だけは整えようとし、そしてそもそもの精神を貫くのでした。

これは、日本人の精神性に近いと言えるかもしれません。我々は、貧しくとも清く生きよなどと教えられてきました。

少なくとも、ストレス対策を考えるような場合には、ある程度柔軟な形で取り組んだ方がよいように捉えています。

さて、いくつかの類型をしておきたいと思います。

  • コーヒーの量を減らして、やはりドリップ式にこだわりを貫く人
  • もうきっぱりとコーヒーをやめる人
  • 特別な機会にのみ飲む人
  • 誰かにごちそうになろうとする人
  • 粉末へ変える人
  • 嘆き続け、抜け出る人
  • 缶コーヒーもドリップも味なんかわかりゃしないぜ!と開き直る人
  • 世間へ不満を発信する人
  • かつてのコーヒーとの日々を思い出し生きていこうとする人
  • コーヒーをけなしはじめる人
  • 紅茶に寝返る人

これは一例でしかなく、様々な受け止め方があるものです。つまりは、カウンセリングのように、それはこの現実の中をどう生きるかということへの問いかけに近いわけです。

まとめ

いずれにしても、社会は動き続ける中で、旧来のもののままで行き続けることができなくなることがあります。

そんなとき、人はそれを受け止め、どうしようとしていくのか、これは心理的な作業の領域になっていきます。

ペリー来航以降、侍はどのように文明開化を受け止めたのでしょう。

朝の連続小説「ばけばけ」においてもその片鱗が描写されています。