最終更新日 2025年1月12日
現代社会では、食事をするまでの時間が段々と短縮されてきました。 つまり、何か食べたいと思ったときには、ものの数分で目当ての食べ物に 辿り着ける時代になりました。
とにかく早く、これが現代社会の前提条件なのかと感じることもあります。
合理化された現代社会におけるカウンセリングの必要性
予てより、お弁当は存在していましたが、現代社会では、お弁当に限らず、 飲み物が欲しければ自動販売機があり、〇〇定食さえもチェーン店に入れば 数分の内に目の前に現れてきます。
非常に便利にはなりましたが、ある意味では、やはり失ったものがあるわけです。 つまり食事が出来上がるまでの時間を失ったとも言えないでしょうか。
別にいいではないかと思われると思いますが、野菜が煮込まれている光景や、それに伴う香り、 焼きあがる音、待ち時間、これらのことも同時に生活の中では短くなってしまったわけです。 これらは失われていることです。
そして、まだかまだかと、野菜を煮込んでいる最中に我々の体内では何らかの食事の 準備が行われるのかもしれないのです。そこに、食事が益々おいしいと感じられる 何かが含まれているかもしれないわけです。 つまり我々は、その準備を得ずして食事をしていることになります。
現代社会においては他の事でも色々省略と合理化が成され続けている
これは、食べ物を例にした話でしたが、この他にもたくさんの合理化や省略が行われています。
葬式
以前にも触れたと思いますが、葬式も相当に省略が進んでいます。葬式が簡略化されてくると、皆で共に悲しむ時間や、悲しみ機会を失うことにもなると思っています。
そのときに、十分悲しむ時間が足りなかった人の思いは、一体その後どこに向かうのでしょう。
- 関連ページ:気持ちの整理がつかない
祭りや七夕の代わりにハロウィン?
祭りや、七夕も以前ほど盛り上がりに欠けています。笹の葉に願いを書いた人はだれくらいいることでしょうか。一方で、ハロウィンが段々と市民権を得てきているような現実もあるので、それは七夕を満喫する機会がなくなったために、形を変えてハロウィンになったということなのかもしれません。
どんなに社会が変化しても、何かのタイミングで、鬱屈したエネルギーを、爆発させる機会が人間には必要なのではないでしょうか。
日本人が風呂につかる機会も減っています。その分海水浴に向かう人が増えるなんてこともあるでしょうか。日本人の服装は、江戸時代のことを考えると、ちょっと面倒だったと思います。
面倒な服装から解放されて風呂に浸かるという文化が深化したのではないかと密かに持論を持っています。そういう意味では、ラフな格好になると、湯船に浸かる開放感は不要になってくるのでしょうか。
服装に限らず、日本で暮らすと窮屈に感じることがたくさんあります。温泉街はそうして生まれたのかもしれません。
透明性とか、シェアリング、ビッグデータなどなど様々な言葉が飛びかう時代です。
平等に何かを知る権利は確かに重要なことであり、推し進められるべきことであります。
技術革新により、ずっと見ていられる世の中にすることは可能になった
この10年程のIT技術の拡大は目覚ましく、様々な分野に応用されるようになりました。
一昔前ならば、「高いし・・・、操作方法もわからないし・・・」などと敬遠していたことでもだいたいはスマホと連動されて一般人が生活に取り入れやすくなりました。
例えば防犯カメラはどうでしょう。予てより防犯カメラを設置するお宅はありましたが、その設置はそこまでお手軽ではありませんでした。
しかし、昨今は電気屋で簡単に購入することもでき、その映像をスマホで確認できるのです。
これを介護や育児に活用する家庭もありますし、そうでなければ生活がまわらないということもあります。
そして、いつの間にやら組み込まれた位置情報です。
スマホを持って移動すれば誰がどこにいるのか一目瞭然なのです。
出張先で気を抜いて喫茶店に籠ったら、それは本社にデータ送信されているのです。
タクシーの配置には大活躍している模様です。
職場の垣根も大事であり、仕切りのパネルは重宝された
実は、IT化以前からこの可視化の傾向ははじまっていました。
職場のデスクも、パネルで仕切られている現場があります。同じ社員同士なのに、垣根があるようで良くない、と考える風潮もありますが、仕切りがあることで救われている人は多いと思います。
時代の流れはオープンで開放的な方向へ進んでいるようですが、本当にそれは心地よいでしょうか?
あまりオープンにすると、あくびの一つにも気を使いますし、なにしろずっと監視されているような気持にもならないでしょうか。
密室で動かされる政治への批判がありますが、それはそれとしても、一般のオフィスまで全て可視化というのはいかがなのでしょうか。心地よさと言う観点からは逆行しているのではないかと感じます。
仕切りや垣根のいい所を再考する場面は余り目にしません。
おそらく、一番変えるべき閉鎖的空間を動かそうとするあまり、手の付けやすそうなところからオープン化されているのではないでしょうか。(もちろん率先してガラス張りの知事室にした県もありましたが、波及したかどうかはわかりません。)
そして、オープン化されたそれは、実は一番オープン化してはならないことだったりします。
開放的なことは一見、とにかく良い事のように思えてしまいますが、全てを明らかにするなどということは、本来恐ろしくてたまらないことなのです。
カウンセリングの必要性とはどこにあるのか
カウンセリングもオンライン化されたりするようになったりと、合理化の対象であることは変わりありません。
コロナ以降、オンライン化も当然のようになりました。かつては、オンラインをどうしても避けようとする方向性があったように感じていますが、時代は変わりました。マッチングのような事も行われています。
そこに留まらず、技術革新によりAIの活用も進んでいます。そして、社会も様々に変化しました。
個別にそれぞれの思いを整理する場としてカウンセリングの必要性が浮上することもあります。
オンライン越しにも可能な部分は大いにあるとは思いますが、実際に顔を合わせなければ得られない体験もやはりあると思っています。またそれが本当の人間であることも必要ではないでしょうか。
息が詰まるような縛りの多い毎日
合理化された現代社会においては、息が詰まるような堅苦しい雰囲気が漂っていないでしょうか。
コンプライアンス然り、マニュアル然り、様々な決まりごとが年々増えています。
それこそ必要なことなので仕方ないと何度も呑み込んでいるわけです。
カウンセリングの必要性はここにも感じられます。
弛みを得たい時、と言う表現も一つだと思います。
これは体にとっても無縁ではなく、心身の弛みと言った方がより正確でしょう。
つまりはホッとするような体験を必要とするとき、と想像すると身近な感じがするでしょう。
或いは、様々な社会の縛りに自分らしさを失った時も一つでしょう。
因果論に行き詰まりを感じた時
これは異論反論もありそうですが、一つの可能性として挙げておきます。
現代社会が因果論で物事を考えすぎた時、カウンセリングは別な視点を見出す機会となることがあります。
トレンドや社会の動きから離れた作業を可能とする
認知行動療法を否定するものではありませんが、昨今、非常に認知行動療法が注目を集めています。
NHKで特集されたり、保険点数化されたこともあり、病院で行わなれることも増えました。
もちろん開業の場でも認知行動療法を標榜している人は多くいます。
またEMDRも、10年前に比較して、世のなかに露出してきました。
流行りという表現は適切ではないにしても、スピーディーな普及が起きたことは確かです。
ここでは、心理臨床の流行りがどうこうというよりも、さらに幅を広げて、社会のトレンドというところまで含めた内容にしたいと思います。
例えば、昨今就職活動に関する動向が激変しました。21世紀に入って、間もなくの頃からだと思います。
スーツ姿の大学生をよく見かけるようになりました。いつからか、大学がどたばたしてきた印象です。親戚に電話したら就職が決まるようなことは、少なくなったのでしょうか。
また、働き方についても、昨今は多様化ということが言われ、終身雇用以外の働き方にも徐々にスポットがあてられはじめました。また、会社で仕事をするという発想自体が変化しつつあり、テレワークの導入もはじまりました。
許されない生き方
さて、これだけ、社会の動きがあると、個人の中の意識も穏やかではいられません。
多くの場合、社会の流れに合わせなければという意識が高まるのではないでしょうか。波に乗らないことは、どこか非常識、良くないこととする風潮もあると思います。
大学卒業して、就職をしないと、両親からいい顔をされませんし、何か資格でも取るか、アルバイトでもはじめるように言われるでしょう。
しかし、アルバイトをはじめたら、いつまで就職もしないで・・・などと言われるのです。世間は勝手なのです。
社会の動きとは無縁
そのような中で、やはりカウンセリングには存在意義が浮かび上がってくると考えています。
社会の要請や雰囲気に左右されず、自分自身の思いに意識を集中することが肯定される場だからです。
多くの場合、社会の流れに乗れないでいることを、自分自身でも肯定的に捉えられないということが起きるものです。その場合、自分の思いは後回しになり、普段の生活の中でそれが十分に語ることは困難になっていくと思います。
友人たちが次々と就職していく中、自分だけアルバイトをしているとなると、劣等感すら芽生えるのではないでしょうか。
しかし、本当に友人たちの方が、優れた人生を送っているのでしょうか?
焦燥感に掻き立てられて動き出す場合、はじめはなんとかなっても、なかなか長期間続けることは困難だと思っています。
それよりも、就職に何かの疑問を持った場合には、その疑問自体を大事にして良いのではないかと感じています。
そこから、その人らしい、人生の方向性が見えてくることも大いにあると思っています。
画家や音楽家も近い思いを持っていないか
最後に付け加えるならば、カウンセリングでそういう方向性が掴めたとしても、現実でなかなかうまく行かないことも人生です。
それほどに、社会の常識や考え方は多数であり、強烈なのだと思います。
これは何も人生のことばかりでなく、もともとそういう性質を持っているからなのでしょう。必ずしも、いい作品がが売れないことは、画家や音楽家を見ていればよくわかります。
しかし、社会が言っていることばかりが真実ではなく、こんな捉え方もできるのだ、という体験をすること自体に、意味があるのだと思っています。
社会に合わせられないことは、決して悪い事をしているのではないのです。
開業で行うカウンセリングは、独立していることも手伝って、社会の常識に捕われない語りをしやすい場所なのだと考えています。
トレンドに逆らうというのは非常に苦しい事です。例えば、「絶対携帯電話など持たない」と思っても、現代社会でそれに抗うことは大変な事です。ですが本当は使いたくないと思っている人は数知れずいると想像しています。どうあれ、自分の思いを確認しておくことには意味があるのではないでしょうか。
人の営みがあるところにカウンセラーは棲むようにいる
私たちの仕事は、現在においてかなり広い分野で行われています。 医療、教育、福祉、産業、司法などその拡がりはまだ続いています。「心理」ということから考えると、人間の営みがあるところ全般に心理臨床家の需要が存在すると想像しています。
我々の専門性の中核の一つは、カウンセリングであると少なくとも私は感じています。
子育てに関すること、仕事に関すること、家族関係に関すること、友人関係に関すること、受験に関すること、結婚に関すること、夫婦に関すること、就職に関すること、などこうしたあらゆる面で人間の心理は動いているわけですから、その需要が多様になっても不思議ではありません。
なぜ棲んでいるのか
これは辞書的な定義とずれていたら恥ずかしい所ですが、あくまで心理臨床家は黒衣役であると認識しているためです。
ですが、存在はしているということです。
そして、その存在は要所要所で重要だったりもします。
黒衣が前面に出ても、舞台は成立するものではありません。
カウンセラーの役割はこの現代社会においてそのようなところに近いのではないかと思うわけです。
カウンセラー自身のためでもある
そして、棲んでいるのは、カウンセラー自身のためでもあります。
不用意に前面に出た時人間社会で何が起こるかと言えば、潰される結果が待ち受けているのではないでしょうか。
非常に消極的な考え方に聞こえるかと思いますが、一方で納得のいく方も多いと思います。
人知れず重要な仕事をこなしている人がこの社会にどれほど多いことか。
表に出ることを得意とする、或いは覚悟を決めてか出ているカウンセラーがいることも事実ですが。それにしてもほとんどはどこにいるかもわからないような活動をしているものです。
心の専門家などとは口が裂けても言えないとする意見も聞いたことがあります。
ずるいという批判も成り立つか
人によっては前に出ない事をずるいと感じるかもしれません。確かにそういう面はあり、表にひきずりだして世の中の批判を受けさせたくなるような気持ちもわかります。
ですが、それ以上に世の中では、目立っていることのほうを潰しにかかる傾向が強いと感じております。
おだてられて一度は出たが、やっぱり引っ込んでいろと言われてしめしめと思う事さえある
心理臨床家への期待は時に現実離れしていることがあります。
先に挙げたように、世の中の事は全部「心理」と関連すると言って過言ではありません。
そのため、あれもこれも、これもそうだと過大な期待を投げかけられることも良くあるものです。
これはショービジネスに似ているところもあります。散々もてはやされていたシンガーが今はどこで何をやっているのかわからないのがテレビの世界です。
我々は、目立つとかそんなことよりも、とにかく目の前のその人に心理援助をどう継続できるかに意識を集中させ続けるべきなのです。益々カウンセリングを研鑽し、実施すべきなのです。
心理臨床家を必要とする人は、どの時代にもいるはずです。
そうした方々へは見つけてもらえるよう心掛ける必要があります。
こう書いてゆくと、日本においては何かの妖怪のような存在が一番近い所かも知れないと思えてきます。
また、別な表現では便所のような存在と思っていただいても結構です。
まとめ
一見不合理・無意味というように捉えられるものであっても、長い歴史の中で磨き抜かれた事柄というものがあるのかもしれません。
それを現代社会においては、「こっちの方が合理的だ」などとして切り捨ててしまう事があるものです。
カウンセリングの歴史も1988年を一つの起点とすれば、すでに30年以上経過しています。
カウンセリングを学んでいない人からすると、非合理的に見える面も多々あるのでしょう。
たゆまぬ研鑽、改善の努力を続けることは言うまでもありませんが、突如無意味なものとして省略されるようなことになるのは抗いたいものです。
- 関連ページ:日本におけるカウンセリングの歴史