いつの間にかわからなくなった自然体を確認することもある

わからなくなっちゃった

最終更新日 2024年11月23日

今回は開業カウンセラーにに関係する話です。

以前、開業における特徴として独立性を挙げましたが、この点についてもう少し述べてみたいと思います。

なぜ独立していることに意義があるのでしょうか。

自然体はどこへいった?わからなくなった時、カウンセリングで確認をつけることもある

我々は、普段の生活の中で、非常に多くの情報による刺激を受けています。

例えば、テレビやラジオから発せられている情報の数々、またインターネットや携帯電話からの多くの情報を受け取っています。

その他、学校の授業、電車の中の広告、著作物、会社の研修、友人や家族の話しなど、一日中なんらかの情報による刺激を受けていると言っても過言ではないでしょう。

いつの間にか、人は日々の生活の中で世間から様々なものを付加されている

カウンセリングを勉強する中で得た視点ですが、人間が生活する中で、いろいろと物事には付加されていったことがあるようです。

それは本来の意味からはずれていたり、本来のものより使いやすくなっていたりと様々です。時に、この付加がまさに負荷になっていることもあるでしょう。

「自然」を「自ずから然る」(おのずからしかる)という意味で読むことができます。

自然と風がふいたり、自然と季節が変わったりと、自然と変化したり、ある方向へ向かっていくものであるとした表現です。

例えば、もっと豊かになろうとして、畑に肥料をまいて作物を大きくしようとします。これは、畑に生える作物という自然に肥料を付加したわけです。

このことで、多くの作物の収穫が可能になり、ボリュームも大きく育つようになったという大きな利点があります。付加することで、もっと多くの恵みを得ることに成功したわけであり、現代文明にはこれと似たことがたくさん行われています。

文明という言葉を出しましたが、自然に付加できる存在は文明をもった人間だけと言っていいかと思います。付加することが増えてくると、「自然」とはだいぶ別なことや物が社会に増えていくこともまた事実でしょう。

自然というとあるがまま、そのままという印象ですが、何事もそのままでいいということもないのでしょう。すべてがそのままであれば文明の発展も生じなかったはずです。

ここで、文明が生じたことも、おのずから発生してきた流れの一つであると捉えることも可能でしょう。例えば、保護や教育を受けて、人が人らしくなっていくという過程を確認した人もいると思います。

人工物

我々が生活する世界では、人間が作り出した物を人工物と呼んで、自然と区別しています。例えば、電車に乗っている時に見える電線や線路は全て人工物です。

この電車が故障などの事情で止まってしまった際には、我々は内心穏やかではいられなくなります。場合によっては、怒りが表出されることもあります。ここでは深く触れませんが、人工物との間に生じる心理的葛藤の存在があるように思います。

人が苦しいと感じるとき

そして物を中心に述べてきましたが、人間にも何かが付加されている模様です。

自然な状態(その人らしい状態)から知らず知らず離れていくことで、人の悩みや苦しさがうまれてくることも一つにはあるのではないかと感じています。

色々な物がごちゃまぜになったとき、時に自分の気持ちがわからかうなるということもあるかもしれません。

価値観や自分の思い、感触など

話がエスカ―レートしているようでもありますが、時に、我々は膨大な刺激の中で、自分自身の価値観や、思い、感触までも影響されてしまう面があるようです。

例えば、就職活動などしたくないと思っていた学生が、周りのてきぱきとした行動を見て焦るとか、身近な人の葬儀が思いのほかあっさり終わってしまったためいつまでも泣いていてはいけないのか?と疑問を覚える人もいるのではないでしょうか。

就職は、本来色々なペースややり方があることですし、葬儀の際に感じる気持ちの収め方も個人個人異なることの方が自然なことです。

しかし、周囲が自分と違うペースで動いている中では、自分のペースに徹することが時に、難しくなりそうです。

有意義に過ごさなければいけないという呪いが蔓延していないか

年末年始は有意義に過ごさなければいけない、という世間からのプレッシャーのようなものがかかった場合、ある人は焦りを感じていることでしょう。

本当に、年末年始を有意義に過ごさなければならないかどうかは疑わしいものなのです。しかし、それほどに世間のいうことはプレッシャーを感じ、自然な状態から離れるきっかけとなることもあるでしょう。

有意義にと言うと非常にもっともらしく聞こえるのですが、もっと有意義にすごすべきという価値観の付加が、まさに負荷をかけているようにも思えます。

テレビのニュース報道では、解説と共に映像が流れています。また解説員が意見を述べるような場面もあります。

時には、自分の考えと違うと感じることもあるはずです。

春などは特に社会の動向に気持ちを揺さぶられる

少し別な刺激では、社会の変化や動向から受ける刺激もあるかと思います。

例えば、4月などは心を入れ替えて仕事に臨まなければいけない!と気合を入れている人もあることでしょう。

これらのような、色々な刺激は我々の中で意識的、無意識的に取り込まれている面は多々あるように思います。

しかし、意識しすぎると、逆に力が入り過ぎたり、調子を崩すという事もまたありそうな話です。

こんな時、自分自身の本来の自然体はどこに行ってしまうのでしょうか?

カウンセリングは本人のペースを尊重し自然体を取り戻す場にもなり得る

さて、ごく一例ではありましたが、我々は、このような中で日々の生活を送っているわけです。

その中では、自分のペースよりも周囲に知らず知らず合わせてしまうということが起こりがちではないでしょうか。

カウンセリングはそもそもが、個人個人を最大限尊重しようとする時間・空間です。

開業の場合は、どこからも独立しているためより一層、この点に専念できる場であると思います。(もちろん開業に限らず、カウンセリングではこうした視点をもっているものですが、開業は環境的にも徹しやすいという意味です。)

このように考えてゆくと、カウンセリングの場とは、自分本来の自然体を取り戻す場という事が出来るのではないかと思っています。

これは、カウンセリングの場では、自由な語りや表現が促進される場所であるため、その人を取り巻いていた価値観や考えから離脱する時間となるという意味です。

そして、カウンセラー自身が自然体になっておくことは言うまでもない条件ですが、特に組織の中ではカウンセラー自身も組織特有の刺激を受け続けているので、時に自然体でなくなりがちなことも経験上あります。

例えば、学校などに長く身を置いていると、教育者でもないはずなのに、教育者っぽい考え方になるなどがそれにあたります。

教育者が良くないのではなく、カウンセラーが教育者っぽくなることは、本来のカウンセラーの責務から離れて行くことを意味すると思うのです。

独立性は、ご利用頂く方にとっての利点にもなり得ますが、カウンセラー自身にとってのカウンセリングに徹する利点でもあるのです。

まとめ

これだけ忙しく進む世の中に置いては、自分自身の事がよくわからなくなってしまう事があっても不思議ではないのかもしれません。

しばらくそのまま・・・ということもあるでしょう。

あるいは、自分をあらためて確認してみたいという思いに至ることもあるでしょう。