カウンセラー側の自己開示について

ブログ著者:臨床心理士 松田卓也

自分の事を言う カウンセリングの基礎知識

特にFreud,S.の精神分析においては、当初セラピストの自己開示に否定的な見解を示していたが、後に肯定的に見る傾向も現れ学派を越えて議論が続いている。自己開示が大きな意味をもたらす場合もあり、クライエントにとって有益と判断できる場合には留意しながら行うべきではなかろうか。

カウンセリングにおいても、カウンセラーの自己開示は慎重に行われるべきである

心の扉を開く自己開示は、クライエントとの関係にさらなるラポールを生む可能性を有しており、その結果、面接の安全性を高め、自由な語りを促進する。さらに、他者の体験に触れることで、クライエントが洞察を深めるきっかけとなる可能性もある。これらが面接の進展に繋がるのである。

だが、これらをカウンセラーが熟慮せず、見立てを持たないまま一方的に行ってはならない。それはクライエントの負担と化し面接の場を驚異の時間に変え、混乱を強めたり、境界の不安定化、面接の中断等に繋がる可能性もある。

カウンセラーの体験に触れて洞察を深めるとはどういうことか

これは題材という意味も持つかもしれません。

例えば、こんなやりとりがカウンセリング時の対話の中で行われるかもしれない。(フィクションです)

CL:こんなにも職場で目立たないのって、自分くらいなものでしょうかね・・・。

CO:そういえば、昔私のうっかりした一言で職場で大ひんしゅくを買ったことがありました・・・。生意気を言ったように聞こえちゃったみたいで。人間関係というのは恐ろしいですね。

CL:あっ、もしかして目立ったから潰された!?

CO:二度とあんな目には遭いたくないですね。

この場合、カウンセラー側はクライエントの発言に呼応するように自己開示を行っています。「目立つこと」が大きなダメージになった経験を伝えたわけです。目立った方がいいのか、目立たない方がいいのか、これは賛否両論あるでしょう。カウンセラーの自己開示は題材として考えを巡らすきっかけになっていると思われます。この場合の結末では、「目立たない」ことにもメリットがありそうだと洞察されています。

又、この場合、カウンセラーは教えたのではありません。教えようとしてほのめかしたのとも異なります。心に浮かんできたというところが妥当でしょう。ひょっとしたらこの体験が何かの題材にならないだろうか?と恐る恐るお見せするような感じになるでしょう。

その人にとっての答えなどわからないのですから教えるという行為は成り立ちません。<こんな経験をしたことがありますが、どうです?>という態度でいたいわけです。

みだりに自己開示することを避けるべきというようなことが倫理要項にも書かれている

我々カウンセラーのもつ使命は、クライエントにとって有益となる支援を行う事です。

倫理的に、我々は二重の関係などにも意識を払っているわけです。

個人的な携帯電話の番号やLINEを交換することは通常ありません。

これらのことを軽視してしまえば、カウンセリングの成立は困難ということに留まらず崩壊、混乱へと展開してしまう危惧を感じるものです。

カウンセリングが成立する前提条件、ないしはその主題が安心感にあることを忘れてはならない。

さらに付け加えるならば、カウンセラー側の自己開示は有益に働けば、それは安心感をもったコミュニケーションとなりうるものです。それはあくまでカウンセラーが体験した内容であるため、誰を否定しているわけでもなく、クライエント側にとっては自己関与度が少ないか、ないという面において、負荷が生じにくいことを意味しているわけです。

洞察を深める題材とするのも自由であるし、私には関係の薄い話であると軽く受け流すのも自由なのです。

一体どんな人なのかわからない存在

カウンセラーは、一般社会から離れたところに存在している者と説明されることがあります。

組織内において活動する場合にも、他の先生とは何か違う、というような感覚を持つものです。

これも軽視できることではなく、カウンセリングの非日常性にもかかわる事です。

カウンセリングには本当に様々な立場の方がお越しになるものです。何かを支持する立場を表明することは、逆の何かを拒絶するというメッセージと化してしまいかねないのです。

まとめ

これらのことから、自己開示はクライエントが有益な体験を得られるよう、そのタイミング、内容、伝え方などに細心の注意をもって行われるべきである。

カウンセラー側が満足感を得るために行われるべき事であってはならない。

いずれにしても、これらのことは相当な訓練による臨床センスにかかっていると思われる。