誰かと話したい

空に尋ねる

最終更新日 2025年3月3日

本当に難しい時代になりました。

技術革新は、人のつながりも変化させます。

昨今顕著に目立つのは、自動精算に見られるような人を介さないサービスの提供です。

コロナを経たことも大きな転換点だったのでしょう。

それ以前からも自動化は進んでいました。益々、個人完結できる世の中になってきたのです。

誰かと話したいと気づいた時

商店街を思い浮かべてみると、かつての社会との違いが浮き彫りになることがあります。

和菓子屋のおじさんはもう引退して店を閉め、八百屋も魚屋ももう1件しか残っていません。

本屋は遙か前に閉店していました。

どこかのショッピングモールに行けば全部揃うのです。

すると、和菓子屋のおじさんのうんちくを聞くことはもうできなくなります。

かつては、誰かと話したいなどと思う事すらなかったかもしれません。

それはもしかすると、いつも話足りていたということなのかもしれません。

しかし和菓子屋がなくなった商店街ではどうなるのでしょう。

だからこそカウンセラーなどという職業が注目され始めたという主張もあるでしょう。

かつてのカウンセリングは和菓子屋さんがその一端を担っていたのです。

因みに臨床心理士の登場が1988年です。心理学がいわゆるブームとなったのは2000年頃でした。

このような社会の動きも無縁ではないのでしょう。

商店街のおじさんといつまでも談笑できた過去

そのおじさんは町内のあらゆることを知っていた生き字引のような存在でしたし、砂糖や小豆に非常に詳しい人でした。

買い物に行った際にはついつい10分でも、それ以上も立ち話をするものです。

その内にお茶を出してくれたり、別な客がやってきて新しい知人が出来たりしたものでした。

それが政治家だったり、学校の先生、近所の医院のお医者さんだったりもして、自然な交流も生まれていました。

(このような時に、心理支援も自然発生していたと推測します。関連:心理支援とは )

そして、和菓子なのにコーヒーを出すその時の店主の笑みが何とも言えず・・・何か悪い事をしているような気分になるのも心地よかったほどです。

そうして日が暮れるのです。(※こんなことを書くと、「そんなに暇じゃないよ!仕事してるんだよ!」と怒られそうですが・・・)

さて、現代的なエピソードを紹介します。

ある青年は、アイスクリームには決して何も振りかけないでくださいと言った

これはある青年が経験したエピソードです。(フィクション)

その青年は、礼儀正しく何の悪気もありませんでした。

しかしながら、よく勘違いされたり、意味不明と思われてしまう事があるそうです。

お店によっては、たくさんのアレンジが成されます。

しかし青年は、むしろプレーンなアイスで十分でした。

というのも、昨今の味付けは行き過ぎだと感じていたためです。

他のお客さんからすると、トッピングの自由はサービスで、何も振りかけないのはもったいないという事でしたが、青年に、そんな希望はありませんでした。

「そのままで結構です。一切何も乗せないでください」とやや強い口調で申し出ました。

強い口調になったのは、以前チョコは乗せないで下さいと言えば、別な物もあるということでエンドレスになったためです。

すると、<トッピングをお持ち帰りになりますか?>とおっしゃるわけです。

アイスですから、その場で食べるつもりでした。

まるで志村けんさんのコントのようでした。

参考動画

となりのシムラPR動画

これは店のマニュアルで定められていたため、毎回聞かなければならないものなのでしょう。 毎回パスワードを入力しなければ使用できないパソコンみたいです。そのためどう見ても今すぐ食べるアイスクリームに振りかけるためのトッピングチョコを持ち帰りにするのかどうかなどと尋ねなければならないのです。

味噌汁やライスが二つ出た

また他のお店では、セットメニューが高すぎると感じ、単品組み合わせで注文したところ、ライスが二つ運ばれてきました。

確かに、その通りに注文したのは青年に他ならないのですが、青年が望んでいた結果とは異なりました。

便宜上、あるものを注文するとライスが自動的につくそうです。

しかしながら、常識的には一食にライスを二つ注文する人がいるかどうかは難しい所です。

同様に、味噌汁が二つ来たこともあれば、みそ汁と豚汁の両方が来たこともあります。

便宜上そうなるのでしょう。IT化されたこの現代社会においては多少ちぐはぐでもやむを得ないのです。

マニュアル化は少数派を窮屈にしていないか

大衆受けする味というものはあるのでしょう。

なんとかバーガーなどはその良い例と言えます。

しかしながら、お口に合わないと感じる方もまたかなりの数いらっしゃるはずなのですが、その辺りはあまり尊重されないように感じています。

誰かと話したかったのだ

青年が言いたいのは、せめて私の言う事を取り合ってくれということに他なりませんでした。

アイスクリームにしても、ライスにしても、<あんたがおかしいんだ>とでも言いたげな様子だったからです。

変わった御趣向ですね、などと言って下さったらどんなに救われたことでしょう。

青年は、このコミュニケーションこそを欲していたのかもしれません。

昨今は接客もマニュアルが前面に出てしまう機会が多くなったと感じる事があります。

マニュアルは必要だとしても、だいたいはどこかにしまわれて誰も見ようとしないものでした。

ラーメンに親指を突っ込んでくれたりしたものです。

そういう愛嬌のようなものが徐々に消えようとしています。

カウンセリングは人間同士の直接の対話を重視してきましたが、昨今ではやはりAIも使われ始めています。

注文を急かされたように感じた時青年は気づいた!

これが最後のエピソードになります。

コミュニケーションを欲しているなどと改めて考えてもいなかった青年ですが転機が訪れます。

味噌汁が二つではおかしだろうという事が伝わりさえすればなかったのです。

ある日、某ファーストフードの店頭に並んでいました。

新商品やら何やらのパネルがたくさんです。文字が小さく、名前の似た商品だらけでどれにしようか迷っていたのです。

すると、ご注文は!?という店員の言葉にまくしたてられたかのように感じました。

<あばばわわわ・・・ええ・・と、今日は寒いからなぁ>

(怪訝な顔をする店員)

<どうしよっかなー、これは単品でもいけます?>

などとゴチャゴチャしていたのです。

店員からはあっさりとした回答があるのみでした。

商品は手に入れられた青年でしたが、何かもやっとしたものが残っていたのです・・・。

<そうか、何か一言でも話がしたかったかも!>と青年はそう思ったのでした。

現代社会で話したくなる状況とは

ここまである青年のフィクションでこのテーマを追ってみました。

他にも、端々に誰かと話したいという状況に置かれる機会が発生しているはずです。

例えば、子育てはどうでしょう。

ワンオペ育児などと言われるように、ずっと小さな子供と向き合い続けている際は、友人や夫婦で交わしているコミュニケーションとは別な体験となるはずです。

これは介護にもいえることかもしれません。

また、コンピュータと―向かい続ける仕事環境にある時、個人で仕事をしている人、在宅ワーカーなど人と話したくなる瞬間が訪れるのではないでしょうか。

そもそも一人暮らしが激増したのです。

かつてなら和菓子屋に行けばお茶も出てずっとは話し込めたのですが、もうおじさんはいないのです。

まとめ

人はメタバースを求めているのでしょうか。養老孟子先生がそのようなことに言及しています。

現代社会では、人間の方をイメージに合わせようとしているというわけです。

理想の店員、接客があるとしているわけで、そこに人間の方を合わせて行くわけです。

だとすれば、そこに雑談くらいのものを挿入してくれるメタバースであって欲しいものです。

こうした社会の変動にカウンセリングは、確かにその溝を埋めようとする一つの存在ではあるでしょう。しかし、それでカウンセリングに行こうという発想も生まれにくいと思いますし、全てがそれに置き換われば良いなどとは到底思えません。

昔は良かったとばかりは言っていられなくなっており、何かを生み出していかなければならない時代に入っているのだと認識しています。