心理支援とは

たくさんの人が関わってている

最終更新日 2025年3月5日

カウンセリングとは何かとを尋ねられた時、どのように説明したらよいものか迷うことがあります。

何度言葉にしてみても、安っぽく感じられ、違和感も同時に生じます。

そうとも言えるし、確かにあのようにも言えそうだ、などと考えるうちに時間ばかりが過ぎるもので、説明に戸惑ってしまうと専門家としての信用さえ失ってしまったのではないかと心配になる時があるくらいです。

これは、カウンセリングが高尚な存在などということを述べるつもりはなく、どのご相談も簡単に言葉にはできない個別性やそれぞれの展開を持っているということを背景に考えているからです。

あまりに簡単に言葉にしてしまうと、ご相談に来て下さった方がお悩みになっていたその意味ある作業に申し訳が立たないのです。

心理支援とはいかなるものか

カウンセリングで何を行っているかという問いかけに一つの答えを挙げるとすれば、どう生きるかの支援を行っていると言えると考えています。

世の中には、原因がわかっても変えられない現実が存在したりどうにもできないことがあります。例えば、過去にあったこと、偶然の事故、倒産、病気、別れ・・・など個人の力ではどうやっても変えようもない事柄が生きる中では幾つもあります。

こうした事柄に直面したとき、我々は自分自身の存在を揺さぶられるかのような体験をしたり、どのように生きていったらよいものか先が見えなくなることもあります。

また、実際的に生活環境を大きく変更せざるを得ないような状況に遭遇することもあるでしょう。

このような時に、その人の中で生じる動揺感、路頭感、絶望感は計り知れないものを感じます。

そのような中にある方に、カウンセラーは何か支援ができるものなのでしょうか。ご本人のご心情を無視した思い付きの解決策などは全て無効となるでしょう。場合によっては、負担を増やす結果にも繋がりかねません。

支援ということを考える際にはこうした難しさも伴うわけです。特に心理支援ということを考える場合にはこうした考えを深めることは重要であると感じています。

そして、心理支援でないと思って開始した支援が十分に心理支援の役割をになっていることがあります。

カウンセラーだけが心理支援を行っているのではない

ケアシステム

上の図にもイメージを示しましたが、生活フィールドの中で絶え間なく心理支援は行われています。それは友人や家族に限らず、地域や文化的な支えなども含んでいると考えています。

絶えず自動的に行われているケアシステムが存在しているのではないかと感じることがあります。

カウンセリングでは、週に1回50分、ないしは、隔週、月1回などのように、相談者に合う時間は限られています。

仮に1年間、毎週50分ずつお会いしても、40時間です。それは、2日程度に過ぎません。

もちろん、50分1対1で話をするという特殊性は他になさそうな体験となり得るとはしても、カウンセラーは、相談者の生活の本当に小さな一コマにお会いしていることになります。

例えば、火事に遭われた方が、ご近所の人の厚意で当面の衣食住について支援を受けたとします。これは物質的な支援のように見えますが、心理支援を十分に含んでいると感じます。ご近所の方のその親切は、火事という恐怖を体験されたその人にとって、全くの孤独でないという支えになっていると思います。

これはカウンセラーにはできない形の心理支援であり、カウンセラーはこうしたご近所の方の厚意に敬意を払う気持ちを持ちます。

火事の後にも支援は続く

そして、ひと段落ついた後にでさえ、ご近所のどなたかが心配して、火事に遭われた方への訪問を自然に続けている可能性もあります。人としてその人に添っているわけです。つまり、「火事大変だったよね・・・」と添い、無理に前向きになってもらおうとしたり、解決策ばかり示しているとは考えにくいのです。

そこには、落ち込むことや絶望することさえも大事にしようとする態度が自然とあるのではないでしょうか。

こうしたことが、新たな生活への大きな力になるのだと思います。

カウンセラーはCLが日常で出会う人々にも支えられている

このようなことからも、カウンセリングだけで、何かが解決されていくなどという事は、極めて稀なことであるか、または、不可能ではないかと思えて来ます。

カウンセリングが無意味な行為なのではなく、日常があってこそ意味を成す行為とは言えないでしょうか。

つまり、カウンセリング以外の場においても、意識はされておらずとも、心理支援は行われているのです。

カウンセリングの場・時間は、非日常であると形容されることがあります。つまり、普段の生活とは異なる、特殊な体験を伴う時間と言えるでしょう。

様々な価値観や考え方などありますが、そういったことを越えて、人が話をする場所でもあります。

一方で、日常とは、普段生活している生活空間を指します。(もちろん、カウンセリングの他にも、非日常的空間は存在します。)

カウンセリングのイメージとしては、普段、日常の中で生活している相談者が、何かのきっかけにカウンセリングという非日常的空間に訪れ、そして、日常的空間に戻っていくものと言えるのではないでしょうか。

日常で行われている心理支援

全てを挙げることはできないほどに、多くの支援が行われていると考えています。

例えば、不登校の学生への心理支援を考えた時、まずは学校の教員の存在が挙げられます。教員は、学業への指導を行う存在でもありますが、その学業をとおして、学生が学ぶことは限りなく多く、それは単なる知識に収まりきらないものであると思います。

歴史に登場する人物、実験、法律など、多くの素材を通して、学生は、自分の進みたい進路のきっかけを見つけるかもしれません。また、親身に指導する教員に、信頼感を持つこともあるのではないでしょうか。

これらが心理的支えになっていることは言うまでもありません。教員は、心理カウンセリングを行っているわけではないのに、そこには心理支援が生じているのです。

もしこの教員の存在なしに、心理カウンセリングが開始されても、カウンセラーは、この教員がもたらす心理支援分のことはできないでしょう。

50分しか時間がない中では勉強を教えられませんし、そもそも歴史に興味を抱けるような話をカウンセラーができるとは限らないわけです。できるものではないでしょう。(ここには、教員への尊敬の念がうまれます。)

教員の先生と時に学生が口論するようなことがあったとしても、それは教員が行う心理支援の限界とは言えず、むしろ、口論を通して、学生が得た体験はまた計り知れず、自分の考えを確実なものとする機会となっている可能性もあります。

あの先生の授業だけは出たい、などと考えて登校のきっかけに繋がることもあり得るのではないでしょうか。

他の専門職である看護職や教育者には持ち味がある

カウンセリングを学ぶ看護師や教師の方の中には、カウンセリングについて疑問に感じている方も少なくはないと思います。

他職種の方も、カウンセリングを勉強すると、確かになるほどと思うことがあると思います。

ですが、カウンセラーの態度を看護師も他の職種も真似して、皆統一した方がよいのでしょうか?教師も指導を止めて、受容と共感をもっと勉強すべきでしょうか。心理的なケアに注目が集まっている時代ですから、皆がカウンセラーらしくなっていければ良いのでしょうか。

やはりそんなに単純な事であるはずはないわけです。

カウンセラーには、カウンセラーという職種の持ち味があるように、他職種には他職種の持ち味が当然あります。チームを組む場合にも、それらの持ち味を、それぞれが発揮したときに、よりよい支援に繋がると感じます。

教育を専門とする先生方には、教育の視点から関わっていただけることで、カウンセラーは、カウンセラーの視点からのかかわりに徹することができることになります。看護職なら看護の観点からというふうにです。

統一された援助職者の在り方はいかがなものか

少し、話が大きくなってしまいますが、昨今はエビデンスベイスドとか、ナラティブベイスドという言葉が医療現場などでよく聞かれます。

エビデンスベイスドとは、「根拠に基づく」の意味であり、経験や勘ばかりを重視せずに、科学的根拠のある方法を実践するものです。これにより、多くの援助職者が、ある一定ラインの支援を提供できる可能性を高めたとも言えるのだと思います。

一つ思うことは、根拠に基づく、効果的な支援の方法がわかってくると、援助職者の在り方が似通ってくるのではないでしょうか。教員にしても、ナースにしても、カウンセラーにしても、医師にしてもです。しかし、度が過ぎれば、援助職者の在り方があたかも機械っぽくなる危険性さえあり得るでしょう。

エビデンスベイスドは否定されるべきものではありませんが、我々の行いは、やはり対人援助のことなのだという性質をよく考える必要があると思います。同じ支援方法であっても、支援を受ける側の人は、一人一人全く別な歴史や個性を持った方々です。

方法論に加え、我々援助職側も、自分自身の在り方を見つめる必要があると感じており、そして、その在り方には個々で幅があって良いのではないかとも思います。

援助職者自身も、それぞれの個性を持った存在であることを抜きにすることはできないのではないでしょうか。

なぜこのタイミングであの人と出会った!?なぜ、その人は現れた??

奇跡

そして、日常における心理支援は、先に挙げた教員との関係だけでなく、あらゆるところに散りばめられているものです。それを担っているのは、家族や、友人、文化などということになります。

このように、カウンセリングは、日常の出会いに大きく支えられているわけです。

何を言っているのかよくわからないとお感じになられる方もあると思います。はっきりとシンプルに、カウンセリングの効果は〇〇です。などと述べればいいのではないか?と思われることでしょう。

どうにもこの辺りがカウンセリングの説明が難しいところであり、そして重要なポイントにもなります。

カウンセリングの場は「セッション」と呼ばれ、そして「日常」が存在します。カウンセリングでは「セッションの中での体験」が「日常のよりよい展開」とつながるよう支援しているのです。益々、難しい表現になってしまいました。

また、別なページでは異なる切り口で関連する事柄に触れています。

なぜこのタイミングで!?と思うことがあります。

不思議なタイミングで現れる教える人・止める人・励ます人など

確かに、この事をカウンセラーがお伝えした方が良いと思われることもたくさんあるでしょう。例えば、新しく引っ越しを考えている方へ、周辺の不動産情報をカウンセラーが調べてお渡しするなどがそれにあたるでしょう。

こうしたことを行ってはいけないというわけではないと思いますし、時にこのような展開になることも十分あり得ることだと思います。

もう一つの発想として、やはりカウンセラーはあくまで非日常的な存在なのであるということと、クライエントの現実生活のリソースを信頼するということが大事なのではないかと感じます。

不思議なことにそのことを行う人がタイミングよく現実生活の中でも登場することがあります。新しい出会いの中でということもあれば、それまで身を潜めていたかのような人が、際立ってきたのか登場するなどがあります。

時には、怒る人、叱る人、説教する人が登場することもあります。これはカウンセラーが一番苦手な所ですが、ちゃんと身近な所にそういう人は存在しているものです。

受容や共感を学んだ人の中には、説教のようなことを、否定的なものと捉えがちになることがよくあります。

説教をする存在は、社会やその人を囲む生活の中に一定数必要なのではないかと感じるほどです。説教を受けたことで、何かを学んだり、自分の進む方向性を再確認した人もいることでしょう。もし説教を全てなくしてしまったら、道に迷う人は増えるのではないでしょうか。

つまり、カウンセラーは、説教をしてくれる存在がいることで、カウンセリングに徹することができるわけです。

カウンセラーの存在意義についても、同様なのではないかと感じます。説教をする人がいるように、その人の在り方に口を挟まず、とにかく添おうとする存在も、社会には一定数いて良いのではないでしょうか。ここにカウンセラーの一つの存在意義があるように感じています。

心理支援者は土地や文化による自動修復システムの恩恵を受けている

コスパ悪い

会社を例にとって考えると、新入社員は、入社すると、先輩社員と出会います。 その中で、仕事のノウハウを覚えたり、会社での常識や慣習を知っていくでしょう。

(コスパ悪くね?と聞こえて来そうですが・・・)

そしていろいろな会社がありますが、時には歓迎会が企画されたり、季節ごとの宴会があったりします。または、社内会議や、社員旅行、幾つものイベントがあるものです。

新しい場所で慣れることが出来るだろうかと不安を感じていた人は、歓迎会でその不安が払拭されることもあるでしょう。(苦手な人もいるとは思いますが) はじめての仕事に恐れを感じていた人は、先輩の指導に救われることもあるでしょう。

時には、叱咤激励があるかもしれません。これらは、意識された心理支援はありませんが、自然と心理支援の意味を持っていることに気づかされます。 専門的な支援とは異なりますが、会社の土壌が既に心理支援の機能を備えているのです。

いつの間にか詳しい

自然界に起きる現象

少し、話は飛躍するように感じるかもしれませんが、ゲリラ豪雨が、なぜ降るのかと、その意味について考えたことがあります。 あれは、むやみやたらに降っているかのように見えますが、地面などを冷やす必要があるときに、降っているように見受けられます。つまり、自然界が修復を行っている様子なのではないかと感じたのです。

職場でも家庭でも、地域社会にもなんのためにやっているのかわからない祭りや風習があります。一見、無秩序に存在するものであっても、何かの意味があるのかもしれません。そんな視点も活用されています。

臨床心理士はそれを邪魔してはいけない

何もしない

専門的な方法が入ってくると、時に、元々のリソースが軽視されがちですが、むしろ専門的な方法の方が、補助的な存在なのです。 カウンセリングを学ぶと、このような視点は通常自然と持つものですが、なぜかこの視点がなくなっていることがあります。

それはあたかも、会社外部の人が斬新な経営方法をもたらし、以前の経営方法を否定するような在り方のようです。社員からはひんしゅくを受けるのではないでしょうか。いままでの苦労が水の泡のようでもあります。

もし、専門家の参入で社内のメンタルヘルス対策に成果が出た時には、それは専門家の力ではなく、元々のケアシステムが活性化されたという方が適切ではないでしょうか。 これが、ケアを行う際の専門家の基本的な態度ではないかと考えています。来てくれない方がまだましだった、と感じている人は少なくないと思っています。

カウンセラーが手をまわすのではない

お呼びでありません

例えば、上記のように不動産情報ということであれば、知人に連絡を取るとか、PCを操作するとか、不動産屋へ足を運ぶなどの行動が必要となってくるわけですが、引っ越し先に古くの友人がいて力になってくれるかもしれないわけです。

仮にカウンセラーがでしゃばっていたならば、その古くからの友人との親交を阻害してしまったということにも繋がりかねないわけです。または、引っ越しに伴って体験する諸体験を奪ってしまうという可能性もあり得るでしょう。

また、人に限らず、何かの出来事がその役割を担うこともあるでしょう。偶然新入居者期間限定割引(安全な)などがはじまったとしたら、その流れに乗って引っ越しがはじまるという可能性も想像されます。この場合、割引というイベントが、引っ越しを後押しした存在ということになるわけです。

カウンセラーが気を利かせたことが的を得ているとも限りません。カウンセリングでは、クライエントを取り囲む環境や人の力を信頼し敬意を払う態度が重要であると感じます。それが、体験に添うということの一つの説明になります。また、カウンセラーが行っている仕事の一つでもあるわけです。

何をしている存在なのかとすれば、体験に添おうとしている

また、クライエントのためにとカウンセラーが気を利かせ、電話を一本入れてみたり、何かの道を説きはじめたりと、あっても良さそうな話ではありますが、基本的にこういうことは行っているつもりはないのです。以前も記事にしましたが、カウンセリングは非日常的な時間であるということを述べてきました。

心理相談の最中、何を行って来たかと訪ねられたらば、一つにはご心情に添うということが挙げられると思います。

しかしながら、かなり多くの人が抱くであろう「アドバイスとかないものなんですね」という世間の印象があるでしょう。

何もしていないように見えるかもしれませんが、クライエントが体験していることに添おうとする存在であるとも言えるわけです。「カウンセラーがもっとこういう話をしたり説得してくれるといいんだけどなぁ」というクライエントを取り囲む周囲の人達の感想もあるでしょう。

共感や受容という言葉もそうですが、「添う」ことは非常にはっきりしない行為として映ると思います。

それがカウンセリングの中核概念だというのですから、「カウンセリングはよくわからないもの」として位置付けられてしまう事もあるのでしょう。社会に存在する他の物事と肩を並べて論ずられるべきなのかどうかさえわからにというのが正直な所だったのではないかと思うところです。

まとめ

幾つものことを並べててみましたが、それでも納得はいかないものです。

つまりは、たゆまぬ精進を続けていくしかないのだと考えています。

支援とは、人とは?何か、このような事を来る日も来る日も考え、地道に活動を続ける臨床家がいることも事実です。