最終更新日 2024年4月11日
カウンセリングの目的を尋ねられた時、どのように説明したらよいものか迷うことがあります。
何度言葉にしてみても、安っぽく感じられ、違和感も同時に生じます。
そうとも言えるし、確かにあのようにも言えそうだ、などと考えるうちに時間ばかりが過ぎるもので、説明に戸惑ってしまうと専門家としての信用さえ失ってしまったのではないかと心配になる時があるくらいです。
これは、カウンセリングが高尚な存在などということを述べるつもりはなく、どのご相談も簡単に言葉にはできない個別性やそれぞれの展開を持っているということを背景に考えているからです。
あまりに簡単に言葉にしてしまうと、ご相談に来て下さった方がお悩みになっていたその意味ある作業に申し訳が立たないのです。
心理支援とはいかなるものか
カウンセリングで何を行っているかという問いかけに一つの答えを挙げるとすれば、題名にしたように、どう生きるかの支援を行っていると言えると考えています。
世の中には、原因がわかっても変えられない現実が存在したりどうにもできないことがあります。例えば、過去にあったこと、偶然の事故、倒産、病気、別れ・・・など個人の力ではどうやっても変えようもない事柄が生きる中では幾つもあります。
こうした事柄に直面したとき、我々は自分自身の存在を揺さぶられるかのような体験をしたり、どのように生きていったらよいものか先が見えなくなることもあります。
また、実際的に生活環境を大きく変更せざるを得ないような状況に遭遇することもあるでしょう。
このような時に、その人の中で生じる動揺感、路頭感、絶望感は計り知れないものを感じます。
そのような中にある方に、カウンセラーは何か支援ができるものなのでしょうか。ご本人のご心情を無視した思い付きの解決策などは全て無効となるでしょう。場合によっては、負担を増やす結果にも繋がりかねません。
支援ということを考える際にはこうした難しさも伴うわけです。特に心理支援ということを考える場合にはこうした考えを深めることは重要であると感じています。
そして、心理支援でないと思って開始した支援が十分に心理支援の役割をになっていることがあります。
カウンセラーだけが心理支援を行っているのではない
上の図にもイメージを示しましたが、生活フィールドの中で絶え間なく心理支援は行われています。それは友人や家族に限らず、文化的な支えなども含んでいると考えています。
例えば、火事に遭われた方が、ご近所の人の厚意で当面の衣食住について支援を受けたとします。これは物質的な支援のように見えますが、心理支援を十分に含んでいると感じます。ご近所の方のその親切は、火事という恐怖を体験されたその人にとって、全くの孤独でないという支えになっていると思います。
これはカウンセラーにはできない形の心理支援であり、カウンセラーはこうしたご近所の方の厚意に敬意を払う気持ちを持ちます。
火事の後にも支援は続く
そして、ひと段落ついた後にでさえ、ご近所のどなたかが心配して、火事に遭われた方への訪問を自然に続けている可能性もあります。人としてその人に添っているわけです。つまり、「火事大変だったよね・・・」と添い、無理に前向きになってもらおうとしたり、解決策ばかり示しているとは考えにくいのです。
そこには、落ち込むことや絶望することさえも大事にしようとする態度が自然とあるのではないでしょうか。
こうしたことが、新たな生活への大きな力になるのだと思います。
まとめ
臨床心理士はもちろん専門的トレーニングを受けた者ではあり、またその方法も異なりますが、カウンセリングの本質も実は、この継続的な訪問と近いことを行っているのではないかと考えます。
カウンセリングでは、気分の落ち込みや悩みが話題になることがあります。
しかしそれを無理に取り除いて解決しようという発想は基本的に持ち合わせていないのです。こうした火事のような出来事を体験された方が、どう生きて行かれるのかをじっくりとお手伝いする態度でお会いしているつもりなのです。
ここにカウンセラーの一つの仕事の在り方があると感じています。