最終更新日 2024年10月6日
我々は、何かの越えがたい課題に直面した場合、それをどう体験するでしょう。
職場、学校、家庭などにおいてそれらと遭遇することが人生の中には起き得るものです。
その課題の大きさや強度によっては、時に、諦めたり、投げ出したりもしたくなります。
また、不満を述べたくなるものでもあるし、誰かを責めたい気持ちにもなるものでしょう。
ですが、課題の強度や大きさに左右されず、どうにか乗り切ってやる、と体験する人も同様に多いものです。この体験の違いはどこにあるのでしょうか。
被動感と主動感
ある心理援助の方法では、「体験」という概念を中心に説明されています。
先に挙げた、「被動感」と「主動感」も体験の一つです。
被動感とは、自分の意思ではなく、何かに動かされている、させられている、という体験であり、主動感は、逆に、自分で動かしているという体験を指しています。心理援助において、目指していくのは、主動感の方でしょう。
させられたジョギングか、望んだものか
この二つの体験をを具体的なレベルで表すと、わかりやすいのではないかと思います。
もし、冬場にジョギングを開始することになった人がいたら、それは、誰にとっても、大変なことには変わりないでしょう。
冬場には、駅伝がTV放送されるものであるが、見ている方は気楽です。
自分が走ることになった場合、穏やかな心境ではいられないのではないことでしょう。
時に職場でマラソン大会に出場するようなことがあります。だいたい若手の新入社員などが走ることになり、走り慣れていない人にとっては、相当な負荷です。
走りたくもないのに、走らされたと感じればそれは、「被動感」を体験したことになります。
この場合、モチベーションは上がりにくく、会社に対して不満を溜めこむことになるのではなかろうか。
一方で、体力作りにちょうどいい機会だと感じている人もいるかもしれません。同じように会社からの意向で走る場合にも、本人にとっての意義を見出している場合には、全てではなくとも、大変ではあるが、モチベーションを持って臨むことが可能となるようです。
後者の人は、「主動感」を体験していると言えるでしょう。
このように、同じ出来事であっても、体験様式は異なるのであって、単純なものではありません。
上述したように、なんだかんだで、やりきることができてしまうのは、「主動感」を伴っているときのようです。
主動感を伴って走る人には、何か一本、その人の中での走る理由、ストーリーが繋がっているように感じられるものです。
ここでよく誤解が生じてしまうものですが、「主動感」(ないしは主導感)は、しっかり走り切るという事を指すものではありません。
会社の無理難題が飛び交う事を冷やかにでも承知して、自分のバランスを崩さないよう、目立たないよう手を抜いて、そこそこに走ろうとする意志がある人は、やはりまた主動感を体験しているでしょう。つまりその人は、大勢に呑み込まれず、自分の意志によって生きているわけです。
まとめ
カウンセリングにおいて、この種の「体験」は非常に深い意味を持つことがあります。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という例えとは違いますが、オセロがひっくり返った時のように主動感を取り戻すとき、それは生き生きとした人生を取り戻すことと近い意味を持つのではないでしょうか。
一方的・圧倒的ストレスに苛まれている際にも近い発想が生きることがあります。