最終更新日 2024年12月18日
我々は、何かの越えがたい課題に直面した場合、それをどう体験するでしょう。
職場、学校、家庭などにおいてそれらと遭遇することが人生の中には起き得るものです。
その課題の大きさや強度によっては、時に、諦めたり、投げ出したりもしたくなります。
また、不満を述べたくなるものでもあるし、誰かを責めたい気持ちにもなるものでしょう。
ですが、課題の強度や大きさに左右されず、どうにか乗り切ってやる、と体験する人も同様に多いものです。この体験の違いはどこにあるのでしょうか。
被動感と主動感
ある心理援助の方法では、「体験」という概念を中心に説明されています。
先に挙げた、「被動感」と「主動感」も体験の一つです。
被動感とは、自分の意思ではなく、何かに動かされている、させられている、という体験であり、主動感は、逆に、自分で動かしているという体験を指しています。心理援助において、目指していくのは、主動感の方でしょう。
- 参考ページ:心理面接では、体験様式へ注目していることがある
させられたジョギングか、望んだものか
この二つの体験をを具体的なレベルで表すと、わかりやすいのではないかと思います。
もし、冬場にジョギングを開始することになった人がいたら、それは、誰にとっても、大変なことには変わりないでしょう。
冬場には、駅伝がTV放送されるものであるが、見ている方は気楽です。
自分が走ることになった場合、穏やかな心境ではいられないのではないことでしょう。
時に職場でマラソン大会に出場するようなことがあります。だいたい若手の新入社員などが走ることになり、走り慣れていない人にとっては、相当な負荷です。
走りたくもないのに、走らされたと感じればそれは、「被動感」を体験したことになります。
この場合、モチベーションは上がりにくく、会社に対して不満を溜めこむことになるのではなかろうか。
一方で、体力作りにちょうどいい機会だと感じている人もいるかもしれません。同じように会社からの意向で走る場合にも、本人にとっての意義を見出している場合には、全てではなくとも、大変ではあるが、モチベーションを持って臨むことが可能となるようです。
後者の人は、「主動感」を体験していると言えるでしょう。
このように、同じ出来事であっても、体験様式は異なるのであって、単純なものではありません。
上述したように、なんだかんだで、やりきることができてしまうのは、「主動感」を伴っているときのようです。
主動感を伴って走る人には、何か一本、その人の中での走る理由、ストーリーが繋がっているように感じられるものです。
ここでよく誤解が生じてしまうものですが、「主動感」(ないしは主導感)は、しっかり走り切るという事を指すものではありません。
会社の無理難題が飛び交う事を冷やかにでも承知して、自分のバランスを崩さないよう、目立たないよう手を抜いて、そこそこに走ろうとする意志がある人は、やはりまた主動感を体験しているでしょう。つまりその人は、大勢に呑み込まれず、自分の意志によって生きているわけです。
さて、続いて主動感を持って人生に臨んだと思われるラガーの物語を紹介したいと思います。
オリンピックを前に引退し受験勉強をはじめたのは本人の強い意志からだった
近年のラグビー人気の高まりをひしひしと感じている方は多い事と思います。
そんな中、オリンピックを前に引退表明する選手をニュースで見ました。
このニュースに感銘を受けた人も多いと思います。
元々、その選手はラグビーを辞めて医師を志すつもりではあったそうです。
オリンピックを区切りと考えていたのでしょう。
しかしながら、ご存知のようにコロナウィルスの関係でオリンピックは延期となりました。
あと1年待つのかと考えた時に、そうではなくオリンピックには出ずに勉強をはじめることにしたそうです。
世間はなぜ?と言うけれど
世間の人からすると、オリンピックにも出て、それから医師になれば両方が叶うのでそれでいいではないか?と思うはずです。実際、そのような疑問を抱いたインタビュアーもテレビに出ていました。
しかしながら、本人の意思は固く、そうではないと考えたようです。
人生の主導権は自分にこそある
コロナ禍という観点からしても、この選手のエピソードが物語ることは、自分の人生の主導権は自分にあるのだ、ということが言えないでしょうか。
世間の賛否はどうであれ、社会情勢はどうであれ、自分の意思のもとに進んでいきたいとする気持ちが垣間見えるように思います。
何が正しい選択なのか我々は時に悩みますが、このことに対する一つの答えは自分にとって納得の行く決定をするということなのだと思います。
もちろん、人生の舵を取ろうなんてむしろ思い上がりと考えて、流れに身をゆだねる人があることも知っています。それも謙虚で立派な生き方です。
社会情勢は一人の人生を大きく左右してしまう事があることは確かでしょう。これは、大災害にしても国の解体、戦争など、個人の意思ではどうにもならないことがあるものです。
このラガー選手の事を、うらやましいと感じる方もあれば、希望をもらった人、自分の夢を代行してくれたと、思いを託した人もあるかもしれません。
まとめ
カウンセリングにおいて、この種の「体験」は非常に深い意味を持つことがあります。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という例えとは違いますが、オセロがひっくり返った時のように主動感を取り戻すとき、それは生き生きとした人生を取り戻すことと近い意味を持つのではないでしょうか。
一方的・圧倒的ストレスに苛まれている際にも近い発想が生きることがあります。