最終更新日 2024年8月6日
カール・ロジャーズ Rogers,Carl(1902ー1987)
ロジャーズは、人間中心学派の人物で、クライエント・センタード・アプローチを創始した。アメリカのカウンセリング心理学者である。時に、静かなる革命家と称されることもあった。
ロジャーズの登場は非常に大きな影響力を持った。当時、精神分析や行動主義が主流的な位置を持っていたが、ロジャーズは、第三の勢力と呼ばれるほどであった。ロジャーズの他には、アブラハム・マズローなども人間中心学派に含まれるとされる。
彼カウンセリングに関する考えは、カウンセラー自身の態度にも及んでおり、共感的理解、無条件の肯定的配慮、自己一致が重要であることを主張している。
晩年のロジャーズは、紛争解決にも参加し、ノーベル平和賞候補にも挙げられた。
ロジャーズが挙げた3つの態度
ロジャーズを学ぶと、以下の3つの態度について触れることになる。
- 共感的理解
クライエントが体験していることを、あたかもカウンセラー自身が体験しているかのようにしつつ理解をしていこうとするものである。クライエントの言葉を聞いて、言葉の理解を客観的に理解しようとする理解の仕方とは異なる。
- 無条件の肯定的配慮
カウンセリングの場面では様々な考え方や価値観、考え方が語られるものであるが、カウンセリングはそこに評価は加えず、クライエントの語りに興味を持って耳を傾けている。怒りや、不満も無条件に肯定される時間であることが、この無条件の肯定的配慮である。
- 自己一致
形だけの受容や共感は不自然であると感じられるものである。カウンセラーの感じていることと実際の態度が自己一致していることが求められる。
この3つの態度は、人間中心学派のロジャーズが提唱した者ではあるが、精神分析を学ぶや他の学派で学ぶ者にも共通している態度であると考えられている。カウンセリングを学び始める、多くの初学者が、このロジャーズの考えに触れると言えるほどに、浸透している。
また、ロジャーズは、心理カウンセリングの分野以外でも紹介されている。例えば、教師や看護師がロジャーズの考えに触れる機会も少なくはない。
ロジャーズの弟子
ロジャーズは、戦後日本に紹介されている。そこには、友田不二男氏、伊東博氏が、ロジャーズの弟子ローガン・フォックスに学んだ歴史もある。常磐線沿いに、その土地はあり、何度もローガンのもとへ通ったとされている。
そして、もう一人の弟子である、ユージン・ジェンドリンも日本に来日している。ジェンドリンは、フォーカシングでよく知られる人物である。
ジェンドリンは、さらに体験過程という概念を提唱した。
日本への影響力が大きい
日本で、カウンセリングを学ぶ際に、ロジャーズの影響力は余りにも大きい。ユングは知らずとも、ロジャーズならば知っているという人は多いはずである。
地域差があるとは聞くが、それにしても日本において知名度は高いのである。
カウンセリングの歴史に関する別項でも触れているが、戦後、ロジャーズのカウンセリングが紹介され、教育相談の分野に従事する教員たちが、数多く学んだという。
カウンセリングは、教育法ではないが、教員がその考えに触れることは意義深い事と思われる。
教育におけるロジャーズの視点
余談になるが、ロジャーズのカウンセリングは、温かみのあるものには違いない。しかし、指導を否定しているものではない。人間が成長する過程には、ある種厳しさに触れることも意義深いものである。
ここを誤解すると、ロジャーズの意図とは異なる方向へ考えが進んでしまうのではないか。
役割の違いという事もあるだろう。カウンセラーという職種を専門にしていれば、指導や説教を行うことは基本的にないものであるが、教員としての役割を担いながらでは、非常に葛藤する場面に出会うはずである。
この辺りに、教師を悩ませる諸問題があるのではないか。同様に、看護師がカウンセリングを学ぶこともあり、やはり近い迷いを抱えていることが想像される。
放っておいて何もしないことなのではないかというロジャーズへの批判
ロジャーズへの批判と言えば、だいたいはこの点が挙げられる。指導とは異なるとは言うが、それでは遊んでばかりいて宿題をやらない子供でも放っておきさえすればいいのか?などと考えたくなるものである。
しかし、そういうものでもない。先に述べたように、カウンセラーは指導は得意でないが教師は指導ができる専門性を備えている。
立場の違いとすればここまでで、納得の行く方もあるが、ではカウンセラーはやっぱり放っておいているだけなのでは?というご指摘を受けることになるだろう。
確かに、カウンセリングの中で指導は行われない。だが宿題をやっていかないとどういうことになってしまうかは心得ているものである。
先生に怒られることになるだろうし、成績へも影響するだろうから、大げさに言えば進路に関わる問題となる。
こんな時、カウンセラーは宿題をやったほうがいいのでは?と問いかけたくなる気持ちになることもあるだろう。しかし、それを言ってしまったらカウンセリングらしからぬことになる・・・などと葛藤が生じるのである。
カウンセラーはこの葛藤を抱きながらも、目の前のクライエントの心情にどうにか添おうとしているわけだから、そこには多大なエネルギーが消費されている。これは当事者のカウンセラー以外にはわからない仕事であろう。
こんな葛藤の中、ついには「しかし宿題も大事かなぁ・・・」などと振り絞るような言葉になってしまうこともあるだろう。だがそれは、単に宿題を強制した場合とは違うメッセージとして受け取られるのではなかろうか。その時のカウンセラーの表情とはいかがなものだろう。言いたくないことを何かに言わされているかのような表情であろうか。
これはまた、宿題をやって当然と考えての発言とは全く別なコミュニケーションが発生するのではないだろうか。
カウンセラーはなんでも理解しようとする態度を示すが、つまりそれは「芝居」なんだと勘違いする方もある。この葛藤を内在していることを知れば、芝居でないことは明白である。
こんなことをやっていると、いつしかカウンセラーの我がどこかにいってしまうこともある。この点については、そしてカウンセラーはいなくなったを参照いただきたい。
静かなる革命家
ロジャーズの方法は、非常に静的と言ったら、批判があるだろうか。他のカウンセラーにも言えることだが、クライエントの力を信じる態度が根底にあるのではなかろうか。人間が様々な可能性を持っていることに触れている。
カウンセラーがこのような態度でいるだけで、訪れた人は、変化していくものである。それは、指導でも矯正でもなく、自ずという感じにであり、しかし、時に大きな変化さえある。
行っていることは地味である。その態度が、個人に留まらず、紛争解決にまで及んだのである。
(鋼鉄のシャッターを参照)
まとめ
カウンセリングの基本的態度は広く知られるようになりました。
しかし、それを実践できることと、単に理解する事とには大きな違いがあります。
それは、何年も修練と実践を重ねて、徐々に磨かれてゆく態度といえるでしょう。
カウンセリングをより実りあるものとしていくためにも、専門家の研鑽は欠かせません。