最終更新日 2024年8月7日
悩みがあるという時、それは当然の事と捉える人もいれば、自分だけ悩んでいると感じる方もあることと思います。
もちろん悩みは実体があり存在するものですが、時に我々は実体のない事に悩まされたり、悩むこと自体を良くない事と捉えることがあるものです。
悩むことは日本社会では時間の無駄とされ許容されにくいのか
悩んでいるとなぜか怒られることがあります。悩んでいると口にしないでも、表情が暗いなどという怒られ方を経験した方もあるくらいでしょう。
いつでも爽快な表情でニコニコしていられたらいいのかもしれませんが、人間はそう単純にもいきません。
誰だって悩むことぐらいあって良いはずなのですが、なぜかあまり寛容ではないようです。
実は皆なにかに結構悩んでいる
我も人なり、彼も人なりというような言葉がありますが、私が悩むなら、同じ人間の彼でも悩むことはやはりあるのでしょう。
しかし、これはどこか確信を持てなくなったり、自分が情けなく思えるものです。
しかし、それでも彼も悩んでいるはずです。
日本社会における一つの苦しさは、ここにあるように思います。
自分だけが苦しい思いをしているという意味ではなく、自分だけ悩んでしまっているという感覚がその人をさらに追い詰めてしまっているわけです。
このとき、元々の悩みに上乗せされて二次的に生まれる悩みが重くのしかかっているのです。これは実体がない方の悩みと言えるでしょう。
ところが、実体がないとはいえこの悩みは巨大になりがちで、圧迫してきます。
自分は一体何に悩んでいるのかを整理するだけでも、実体のない方の悩みは小さくなってくれることもあるようです。整理は難しいにしても、「実は最近悩んでいて・・・」などという知人のセリフをどこかで耳にするだけでもほっとできるかもしれません。
井戸端会議や噂話と言うのは、もしかすると、こうした悩みを低減するために行われている面もあるのかもしれません。
では悩む能力、機能はなぜ備わっているのか
悩む時間が無駄であるという場合、浮上する疑問はその存在意義です。
江戸時代にも悩んでいる人がいましたし、古代の人間もきっと悩んでいたはずなのです。人類の歴史は悩みと共に進化してきたと言っても間違いではありません。
もちろん悩まないスタイルの人もいるのでしょう。
ですが、悩むスタイルの人がいけないということではありません。
月並みではありますが、じっくりと悩むことで良い決断をすることができたり、何かを生み出すこともあるわけです。苦しさを伴うところが大変なところではあります。今期のある人しか長く深くは悩めないという風にも言えます。
これはある種カウンセリング的な発想でもあります。もちろん、繰り返しになりますが悩まない人を否定する者ではありません。
余談
少し違う話に聞こえるかもしれませんが、山口県に「三年寝太郎」の昔話が残っています。
いつも眠ってばかりいた寝太郎ですが、ある日突然活動を始め村を救ったのです。
どうやら、三年間皆を助ける方法を考えていたようなのです・・・
この話、悩むことを肯定する側面があることと通じるところがないでしょうか。
まとめ
滅多に耳にする機会はありませんが、「せっかくの悩み」とか、「せっかく悩み始めたんだから」という言い方もあるものです。
日本社会では、他と少し違うやり方・在り方をすると異端者扱いされてしまうところがあります。本質なんてどうでもよいことであるかのようです。