これらは多様で一つの形ではありません。簡単にではありますが、カウンセリングの種類や考えについて幅広い観点からまとめています。
※こちらは情報発信ブログです。これらの方法を当オフィスが行っているという案内ではありません。オフィスをご利用の場合は、別サイトをご参照下さい。
カウンセリングの種類は数多く存在する
- 解説カウンセラー:ロバートハーパーによれば200種類以上もあるとされた。現在では400を超えるとも言われているのです。
- ローラ:200って・・・。どうしていいかわかりませんね。カウンセラーの人は、全部勉強してるんでしょうか?
- 解説カウンセラー:全部に精通した人はいないと思います。たくさんアプローチ法が生まれた背景は、やはり人間には多様性があるということだと思います 。
臨床心理士の訓練課程を例にとると、概ねはじめは一つの方法を集中的に学ぶ期間が続きます。指導者行動を共にする中で、研修会や学会、現場でその方法を学んでいくのです。そして、何年も経ってから、別な方法にも興味・関心を向けるという過程があるかと思います。(あくまで一例です)
※どれがいいのか?とお考えになりたくなる気持ちは当然です。なかなかカウンセリングの場合は、そこを明確にすることが難しい性質を持っています。関連することを別項にまとめておりますのでご参照ください。関連ページ:カウンセリングの効果とは

※参考サイト:(日本臨床心理士会のホームページでもより全般的な形で諸技法を紹介しています。
セッション体験重視か宿題を出す生活上の体験重視か

カウンセリング1回の事を、ワンセッションと呼ぶことがあります。
これには異論反論あると思いますが概ね、カウンセリングの方法はこの二つに分類できないでしょうか。つまり、セッション体験重視か、生活上の体験重視かです。
セッション体験重視では、カウンセリングの時間50分の中で生じる「体験」にフォーカスします。そのため、自宅でワークブックを進めるなどの宿題を出すことはありません。自発的に何かに取り組み始めることはよくあるところです。
これは、カウンセラーのオリエンテーションによって異なりますが、ある人たちはこの立場に添っています。
心理面接においては主に言語を援助手段としますが、その限りではないことを折に触れて書いています。
そして、言語も動作もそれ自体が主ではなく、もっと根本にあるものは「体験」という概念にあります。
つまり、セッション体験重視とは、セッション中にどのような「体験」がなされるかという点に尽きます。
一方、日常生活上の体験を、「生活体験」と呼んでいます。
カウンセリングでは心理支援を行っているわけですが、日常生活上でも心理支援は行われています。このことに関しては以前の記事でも触れました。
まず、日常生活とは我々が普段生活している空間や交友関係の展開される場のことを指しています。学校であったり、家庭であったり、職場であったり、カウンセリング以外の時間のことです。ここでの登場人物は家族や友人、知人、医師、教師など、カウンセラー以外のすべての人を指します。
この日常生活の中で、人は様々な体験を通して、カウンセリングに行ってみようと考え、カウンセリングオフィスなどに問い合わせが生じるという流れがあります。
カウンセリングの場は、日常生活とは異なる異質な空間です。これを非日常という言葉で表現することがあります。非日常は日常生活の中にも存在するのですが、カウンセリングは、特化した非日常的な空間と考えています。
カウンセリングの訪れた方は、ある種の変わった体験(日常生活ではあまりない体験)をなさって、日常生活に帰って行きます。この体験自体にどのような意味があるかについてはまた別な機会にと思います。
その後に日常生活へと戻って行かれますが、さらなる心理支援はこの中で行われています。
CLの全てに関われる存在ではない
我々は、1回50分程度のセッションの時にだけしかCLと会う機会がありません。
生活場面で支援する存在ではありませんから、多くを知ることはできませんし援助もできないのです。
セッションの純度を高め凝縮された時間を提供している
我々の援助方略は、セッション体験の純度を上げ、そこへ援助を集約・凝縮させるものです。
これは、CLの持つ力と、CLの周囲の環境や人、文化などの力を信じる態度が背景にあります。それがなければ心理支援単独の力などたかが知れていると考えています。
日常生活の変化
セッション体験が日常へ波及、生活化するとする考え方があります。
本当にそんなことが起きるのだろうかと、疑わしく感じられる方もあると思いますが、基本原則はずっとこの方略でやってきたはずです。
セッション中にどんな体験が生じているのか?
では、セッション中有用な体験とはいかなるものなのでしょう。
それは例えば、安心感であったり、主動感であったりします。
- 安心感:穏やかに、安心して過ごせる時間
- 主動感:自分で動かす感じ
- 達成感:何かをやり遂げた感覚
- 自体感:自分の体の感じに対する体験
このような体験がセッション中に起きることがあります。例えば、臨床動作法においては「自体感」は、置きやすい体験と言えるでしょう。
肩凝りなど意識していなかった人が、体に注目する方法を体験したことで左右の肩凝りの違いなどに意識が向くかもしれません。
それは、疲れを認識する機会になる可能性もあり、日常においては疲れを意識しやすくなるという変化が起きる可能性があります。
「セッション体験」の視点は、臨床動作法、或いはその関連するアプローチを学ぶ者の間で日常的に用いられる概念ですが、他のアプローチにおいても、この視点は意味をなすと考えられる。
フォーカシング

フォーカシングは、ユージン・ジェンドリンによります。「体験過程」というカウンセリングの中核概念が凝縮されています。どこかはっきりとは言葉にはできないものの、もやもやっと何かを感じ取っているときがないでしょうか。その感じに注目する方法です。
箱庭療法

スイスのユング研究所から帰国した河合隼雄が日本で幅広く活動しました。元々は、サンドプレイと呼ばれる方法ですが、日本の「箱庭」だなと理解した河合先生の独創性が日本風に名前を変えました。
言葉をあまり介さずとも成立する方法のため、馴染みやすい方もあるでしょう。
内観療法

日本オリジナルの心理療法の一つに数えられます。吉本伊信の考案です。浄土真宗の「身調べ」という修行法から着想しています。応接間のような場でソファに座って行われるカウンセリングとはまるで違う光景になります。
臨床動作法

臨床動作法:成瀬悟策氏によって創始された方法です。こちらも日本オリジナルです。単にリラクセーションということではなく、体験様式に注目します。スポーツ領域にまで展開しています。
「動作」は、極めて人間にとって原初的存在です。その動作を主たる援助手段として捉えた方法です。
精神分析

フロイトによって創始された方法。多くの日本人が抱くカウンセリングイメージの一つとして挙げられると思います。フロイトは催眠を学んでいたこともあります。
交流分析
精神分析の口語版と言われることがある。エリックバーンによって創始された。
認知行動療法
認知の仕方に注目する方法と考えています。日本では、この15年程の間に大きく広がっています。
EMDR

日本でも学会が創設されました。眼球運動に注目する方法で、行動療法や精神分析からは想像しにくい方法です。日本にも20世後半に紹介され、現在かなり制度化されました。Francine Shapiro博士によって考案された方法です。
漸進的筋弛緩法

エドモンド・ジェイコブソンによるメソッドです。足から顔まで自分でリラクセーションを行います。1920年代からの長い歴史を持ちます。職場のメンタルヘルス研修では、多くの場合に紹介される機会があります。
森田療法

こちらも日本オリジナルの方法として数えられます。精神科医、森田正馬(1874~1938によって創始されました。
システムズ・アプローチ

家族療法の一種です。全体を一つのシステムとして捉えアプローチする方法です。
自律訓練法

自律訓練法は1932年ドイツの神経科医シュルツ博士考案です。公式を練習する形で展開しますが、臨床動作法同様に、「体験」を扱うとする立場もあります。カウンセリングの中で用いられる際には、椅子に座って実施する形式が多くなると思われます。
心理援助の方法には、体へのアプローチを行う立場があることを以前紹介しました。
中でも、自律訓練法と漸進的筋弛緩法はよく挙げられる方法です。そして、これらの方法は、単にリラクセーションの方法としても用いられることがあります。
自律訓練法は、日本において非常に多くの関心が寄せられてきた援助技法です。
参考サイト:自律訓練学会
ここでいう「自律」とは、「自己制御」などの意味で用いられるとされています。しかしながら、あるワークショップにおいては別な表現で説明を受けた記憶があります。これらは原著をあたってみると良いでしょう。
個人の心理カウンセリングにおいて自律訓練法は、やはり「体験」を扱う形で用いられているはずです。
そうでないやり方もあるのかもしれませんが、単にリラクセーションを旨としているわけではないはずです。
この辺りは、専門家によく聞く必要があります。
分かり易さを重視することは、そのセッションの安心感にもつながるところがあります。つまりは、カウンセラー側の習熟度に左右されるところが大きいのです。
最後に自己習得に触れたいと思います。
自律訓練法を用いてセルフケアしたいと考える人は多いと思います。テレビや本で紹介される機会は時々あります。
しかしながら、なかなか実際のやり方を本などから再現することは、結構難しい事でもあります。
できれば、専門家にレクチャーを受けられるような機会を一度持っておくと、その後のセルフケアはやりやすくなると思います。人知れず本で読んで実践をして、「まるでリラックスなんて感じない・・・」とあきらめた人はたくさんいると思っています。これらの方法は、しっかり学ぶと、非常に有益な財産とできる場合があります。
昨今、学校の授業にもストレスマネジメント教育ととしてこのような方法が取り入れられています。学校で学んだ人は、その後の人生でも活用しているのかもしれません。
もし個人カウンセリングのセッションで用いる場合には、手順を覚えていれば使えるということではなく、より専門的トレーニングが必要となります。
逆に、そのようなカウンセラーを探す場合には、習熟した専門家に巡り合いたいものです。
ソリューション・フォーカスト・アプローチ

ソリューション・フォーカスト・アプローチでは、解決に向けた質問を繰り返すなどのやり取りが、解決につながることもあります。未来へ焦点を当てた発想です。
とかく原因モードになりがちですが、このアプローチでは「すでにうまく行っていること」にも焦点化します。
ナラティブアプローチ

社会構成主義の背景をもつナラティブ・アプローチです。現実は構成されるという発想をします。例えば・・・本当に過去の浪人生活は無駄な時間だったのか?もしかしたら意味のある事だったのかもしれない・・・と新たな物語が展開することもあります。
カウンセリングに限らず、今医療の分野などでも、エビデンスベイスドに対して、ナラティブベイスドという視点が注目されています。
これらは対立するものではなく、相補的な存在とされています。
つまり、根拠に基づくアプローチだけではなく、その人の物語(ナラティブ)も大事にしたアプローチを目指そうとする動きがあるのです。
カウンセリングにおいても、このナラティブの視点が取り入られています。
現実とは何か
突然ですが、ここで、少し現実とは何か、というテーマに触れてみたいと思います。
例えば、我々が、「これを食べると太っちゃうよね。カロリーが高いから。」といういう時、それはエビデンスに基づいた発言です。統計上、理論上そういうことが言えるのでしょう。
ですが、ある人は、「あれを食べると調子が良くって、からだを動かしやすいんだ。気分よく動いたから体重減ったかも。カロリーばっかり気にしちゃいけないね」と言うかもしれません。(こちらは物語的な発言です。)
これを聞いた、エビデンス重視の人は、「そんなことが起きるはずはない」とお考えかも知れません。
これらは、どちらが事実なのでしょう。
現実は構成される
ナラティブな視点では、後の人が言ったことにも十分に意識を向けます。(科学的な視点を放棄するのではありません)そして、質問したり、もっと詳しい所を聞いていきます。
このようなことを経て、その人にとっての、意味ある現実が構成されていくと感じています。(社会構成主義と呼ばれています。)
ナラティブな視点からは、もしこの人が痩せたいと希望するなら、カロリーばかりを制限する指導はしないでしょう。
なぜそれを食べると調子が良いのか、調子が良いと何をしたくなるのか、自分では何がポイントになると思うか、などと本人の語りに意識を向けて行きます。
もしかすると、制限ばかりを気にすると、ついつい他の物を食べてカロリーを摂ってしまう癖がこの人の場合はあるのかもしれません。
そしてこのようなことを考えながら、出来上がった方法が、その人にとっての減量方法になるわけです。(フィクションです)
物語(ナラティブ)への注目
説明にはあまり良い例ではなかったかもしれませんが、これがナラティブな視点です。
カウンセリングにおいても、ナラティブへの注目は今後増していくのではないでしょうか。(エビデンスを否定するものではありません。)
一つ補足すると、ナラティブという概念は、「体験」という概念に近いものを感じます。その人の物語、ナラティブを理解するという表現からは、生育史などの理解が協調されてしまうように思いますが、それは話の流れで決まってくることと捉えています。
ナラティブな視点をカウンセリングに取り入れると
さて、実際のカウンセリングで、ナラティブな視点・態度はどのように生かされるのでしょうか。
色々なスタイルの人がいることと思いますが、一つ特徴として挙げたいことがあります。
何かの悩みがあるとき、それは良くないことが起きているのだと我々は考えがちです。しかしながら、それは一つの見方であり、もっと別な見方ができるかもしれないものです。
そこで、ナラティブな視点からは、悪いことが起きている(起きた)というよりも、何かの意味があることが起きている(起きた)と捉えることがあります。
当然のことながら、その意味が浮かび上がってくることは簡単な事ではなく、悲しみや、怒りを十分に共有することが必要かもしれません。
ああでもない、こうでもない、と色々な話を進めて行くうちに、おぼろげにカウンセラー、クライエント間の間に浮かび上がってくるようなものです。意味があるなどと強要することとは全く異なります。
その上で、この点に触れてみたいと思います。
1年間のブランクを経験したとき
もし、バリバリと働いている人が、何らかの事情で、1年間の休職を必要としたとします。
仕事に燃えていたその人にとっては、さぞかし苦しい経験になってしまうことが想像されます。早く職場に戻りたいという焦燥感に駆られるかもしれません。
このような場合、休職してしまったことは、マイナスの出来事にしか感じられないと思います。
しかしながら、その1年間に何かの意味があるとしたら、物語は良い方向へ進んでいるとも見えなくはないのです。
例えば、家族との時間を多く持ったことによって生まれる何か・・・
或いは、1年というブランクが生む、仕事上のなんらかの貢献など、それぞれの人によってそこには多様な物語が生まれ出る可能性があります。
ネガティブに捉えれば、「あの1年のために、仕事も家庭も滅茶苦茶になりそうだ・・・」と感じるかもしれませんが下記のようにも考えられるわけです。
- 「あの1年があったから、家族の大切さに気付くことができた」
- 「あの1年休んで自分の専門性の足場を総復習してより確実なものにできた」
つまり、その一見遠回りのような解剖学を学ぶという作業が、実は体を動かす上でも意義深かったということだったのだと思います。どこで何が生きてくるかわからないものです。おそらく調べれば、このようなエピソードは羽生選手以外にもたくさんあるのではないでしょうか。水面下で何が起きているものなのか、他の人には観察できないのです。)
引用:ANNニュースチャンネル 春の園遊会
これは塞翁が馬のような話にも見えますが、単に、ラッキーだったという類の話ではありません。人生において何か重要な示唆を得るような体験だったという方が近いでしょう。なぜそのタイミングでそれが起きたのか、実は何かを得るためだったのかもしれないわけです。(これが目的論的発想と言えるでしょう。)
このように、別な物語として捉え直されたとき、悪い事と言うより、良い事だったのではないか・・と言えるようなこともあるのではないかと、そんな風に感じています。
冒頭でも述べましたが、このようなナラティブな視点は、カウンセリングに限らず、医療や教育の現場でも取り入れられ始めています。当オフィスのカウンセリングにおいてもこの視点を取り入れています。
催眠療法

日本では成瀬悟策氏が、世界的にはミルトン・エリクソンが著名です。催眠といえば、テレビで時々見かけるような、「ショー催眠」を思い浮かべられるかと思います。
しかしながら、心理援助に用いる催眠は、学術団体も作られ、倫理観をもって運営されています。
来談者中心アプローチ

お話になられることを傾聴していく中で、考えが整理されたり、新たな視点にお気づきになるなどのことが起き、そうしたことが問題の解決につながることがあります。カール・ロジャーズもご参照下さい。受容・共感・自己一致などという言葉は良く知られるようになりました。
戦後、日本のカウンセリングは大きくロジャーズの影響を受けました。
プレイセラピー

プレイセラピーは子供を対象とする面接でよくとられる形式のセラピーです。子供の場合は、成人のように言葉を介したカウンセリングではなかなか馴染まないことがあります。年齢によっては不可能に近い事もあり、そこで「遊び」を介した心理援助の手段が考案されているのです。
プレイセラピーの設備がある相談室は限られます。大学院付属の相談センターなどが挙げられます。
臨床心理学を背景に持ち、技法単体で用いられるとは限らない
臨床心理学という学問を背景にもって、来談者中心アプローチや、ソリューション・フォーカスト・アプローチなどを学んでいるわけですが、「このご相談内容」には「このアプローチが良い」という発想だけでは、なかなか馴染みにくいと考えています。
方法と書きましたが、独立して技法のようにそれを用いるとは限らず、またカウンセリングは手順通りに進められるものではなく、カウンセラーは様々な視点を抱きつつ、総合して、目の前で語られることをお伺いしていきます。(当オフィスではそのような態度を持っています)
カウンセリングで用いられる「アプローチの違い」については、一般の方には特に馴染みのない言葉ばかりで難しい問題です。
幾つかの観点をご紹介します。
たってのご希望があるのなら、そこを入り口にしてみるのも一つ
〇〇療法を受けてみたい!と明確なご希望がある人は、そこを入り口としても良いかもしれません。
しかしながら、もう一つには、カウンセラー側がどう受け入れているかという問題があります。
公に、「〇〇療法を希望する」というご希望には応じておりませんと謳っている人もいます。
そうでなくとも、「援助手段として妥当であるかを検討の上、開始いたします」などとされていることがほとんどです。
全ての経験の蓄積を総動員してカウンセリングに臨むが、合わせて9段ではない
これは、妥当な説明の仕方かどうかはわかりませんが、似たような話のようにも思います。
例えば、武道の世界には、空手・柔道・合気道・剣道などがあり、それぞれに段位が設けられています。
剣道8段といえば700数十名程度と聞きます。そしてその審査は非常に難しいのです。
一方、柔道2段、空手2段、合気道初段、剣道2段、将棋と囲碁を合わせて9段!などという皮肉を聞くことがあります。(そうであってはならないという意味で)
これは、どれも中途半端で本質的な学びを得た事とは違う事を言いたい皮肉なのだと思います。
これはカウンセラーにおいても当てはまる話ではないでしょうか。
まとめと疑問
このように、カウンセラーは、言語以外の援助手段を学んでいることがあります。 では、言語によるカウンセリングと、体へのアプローチによるものとでは、何か違いがでるのでしょうか?
別項でも述べたかもしれませんが、本質的には同じものであると考えれば、違いは少ないでしょう。通常のカウンセリングと同様、時間を決めたり、ある一定の枠組みの中で行うという原則は変わりません。
しかし、方法は全く異なりますので、見た目や毎回のセッションの様子は違うと言えるでしょう。 あまり単純化はできませんが、言語向きの相談もあれば、体へのアプローチ向きの相談もあると言っていいと思います。
どの援助手段を採用するかは、よく相談してお決めいただくことは大事だと考えています。 また、どのちらの援助手段を用いるにしても、体への注目は、抜きにできないのではないでしょうか。言語面接においても、「腑に落ちる」などという表現が象徴するように、体レベルでの変化が起きていると言えないでしょうか。


