その人らしく生きて行く個性化

ティーポット

最終更新日 2025年1月12日

紅茶を入れるティーポットがありますが、あれを見ていて思ったことがあります。まず、我々が知っている紅茶を飲むには、それなりの時間がかかります。カフェなどでは、既にカップに注がれた紅茶が出てきます。(ティーポットつきのカフェも増えましたが)

つまり我々が知る紅茶は既に出来上がった紅茶ということになります。これは、喫茶店などで出てくる、ティーカップに注がれた紅茶を想像していただければと思います。

しかし、当然ながら紅茶になる前には、茶葉だったわけです。茶葉の段階では、確かに紅茶であることはわかっても、それを見たからといっても、紅茶を目の前にしたという感覚にはなりません。茶葉には、紅茶らしくなっていく過程があるわけなのです。

紅茶の葉っぱが個性化していくかのよう

まず、ティーポットに、茶葉を入れ、お湯を注いでしばらく蒸らします。

この際、茶葉はジャンピングという現象を起こしているらしいです。茶葉が、ティーポットの中で、まさにジャンプしているかのように動いているそうです。白い陶磁器のティーポットではその様子は観察できませんので、この現象を確認するには、ふたを開けてみるか、透明なティーポットを使うなどしなくてはなりません。

また、市販の紅茶を見ていても、案外ジャンピングの様子が観察できます。よくお茶の入れ方がおいしいとか、そうでないとか言いますが、しっかりジャンピングが起きていることがおいしい淹れ方のコツになっているのかもしれません。もちろんその他の要素として、温度や茶葉の量なども影響するのだと思いますが。

そして、一段落すると、茶葉は沈殿し、紅茶が抽出されてくるわけなのです。

私はこの過程に非常に興味を感じました。ティーポットの中で何が起きていたかというと、紅茶が益々紅茶らしくなっていこうとしていたと感じたのです。

これは私が、カウンセリングを行っているから感じたことだと思うのですが、カウンセリングには、その人らしさを深めていく時間と言える面があると考えています。

茶葉がまったく別なものに変化してしまうわけではないように、カウンセリングを受けた時も、何かが修正されるというイメージではなく、その人らしさが深まった、その人らしい生き方を見つけたなどと言うほうが本質に近いわけです。

持ち味、などという言葉を出すこともありますが、茶葉にすれば、まさに持ち味を抽出したのでしょう。

日本紅茶協会が、ジャンピングに言及していました。

適応と個性化

広い意味でとれば、その人らしくなっていくことを、専門的には個性化と呼んで良いかと思いますが、ティーポットを見ていてこんなことを感じたことがあったのです。またこの個性化という言葉は、ユングが提唱したとも聞いています。

カウンセリングの目的を考えると、適応ということを挙げたくなりますが、実は、個性化という方が近いようです。少なくとも適応のプロセスやその方法はそれぞれの形を取っていくものと感じています。ある一つの方向性を誰しもが目指すというものでもなく、そこには個別性が存在しています。

出来事を通して感じること、例えば入院

何かのタイミングで、けがや病気のために入院することも、あるでしょう。もしかしたら、それまでの生活を維持できないようなイベントかもしれないですし、同じような生活に戻れるイベントかもしれません。

どんな年齢で、そのイベントが訪れたのかにもよると思いますが、例えば、20代の人が骨折で1月ほど入院したとしても、人生を大きく考えるようなきっかけになるかどうかというと、それは可能性としては少ない方になるのではないかと思います。(もちろん一般化できない話です)

もちろん、それまで学校も仕事も皆勤賞のような人だったら、1月という時間でも感じることはあるかもしれませんが、50歳くらいの人が、何かの体の病気で一月入院することとでは意味合いが変わるでしょう。

バリバリに働いていたという人であれば、まず仕事のことが頭に浮かぶのではないでしょうか。あの仕事が途中になっているが、誰に引き継いだら良いだろうか、とか、あの件についてどうやって保留にしたら良いだろうかなど、考えることも様々でしょう。

そして、自分自身のことについて、今後この機会に仕事を控えめにしようとお考えになるか、同じように働きたいとか、さらに発展させたいとか、実はこんなに働きづめるつもりはなかった、など、いずれにしても複雑な心境が訪れるのではないかと想像されます。

このようなとき、周囲は周囲の意見をその人に投げかけてくるでしょう。ご本人は、この先どうするか?ということを考え始める局面に立っていく場合があるのではないかと思います。きっとこんなときに、ご自分の生き方に意識が向くということが起きるのではないでしょうか。

人世の正午

そして、それは衰退的なニュアンスではなく、新たなよりよい生き方の発見というニュアンスを含んでいる可能性も十分あるのではないかとさえ感じます。

心理学者のユングは、中高年の時期を人生の正午と言っています。正午ですから、生の半ばということになるわけです。場合によっては、それまで生きてこられなかった側面が前面に現れてくるということもあるでしょう。

それは今までの人生の中で、影になっていた面であると言われることがあり、中年期以降の生き方も合わせて統合してゆくという、それ以降こそが真の個性化であるとさえ言われています。

紅茶の葉も前半に抽出される成分と後半のそれは異なるものかもしれません。そしてそれらはいずれにしても統合されて一つの紅茶となるわけです。

関連ページ: カール・ユング

関連論文

まとめ

現代社会はとにかく適応を求められる時代と言えないでしょうか。

満員電車然り、IT化然りです。あげ始めればきりがありません。

幸せは一様との表現があります。(トルストイの『アンナ・カレーニナ 第1編』がルーツの模様)

まさに幸せの形までそこに合わせてそうなっていくことを求められているようにさえ思えてしまう事があります。多様性などとは言っていてるにもかかわらずです。

どう生きるかが難しい時代になりました。