最終更新日 2024年12月21日
一体を何も目的として面接を行うのか?たいした考えもなく進めているのではないか?
このような疑問は、様々な場面で持ち上がります。ここでは2つに大別して捉えることにして、一つには、行ってみたけれど一体何をするかわからなかったという経験から生じる疑問、それから、専門家がカウンセリングを学ぶ際に生じる疑問です。
幾つかの例を参考に述べています。
カウンセリングの目的とは
カウンセリングは、独立した行為です。精神医学とも異なりますし、指導やソーシャルワークとも別な行いです。
心理的なケアと言えば、その通りですがそれはかなり幅広い概念です。精神医学的なケアもある中で、カウンセリングはその一つと位置付けるという言い方もあるかと思います。
争点が適応を目指すかどうかという点にあるとすれば、必ずしもそうではないわけです。
結果的に適応的になる事は多々あります。
何を求めてカウンセリングにお越しになるのか、そしてカウンセラーはどう応えようとするのか
カウンセリングは、「その人に添う」ことであるとも説明されることがあります。そして、「苦悩の軽減」を目的とするとも言われます。我々専門家に向けられるニーズとしては、一義的には後者の方であるかもしれません。
なんとかしたい問題・苦悩の解決を期待してお越しになられるのです。
これは、当然のお気持ちでありますし、心理臨床家はそこに応えられるよう努める必要もあります。この場合、他の相談も出ると同じ構図になります。しかし、実際に行われるカウンセリングは、他の相談とは異なる視点・方法で進められるのです。
何もしない事
これも一つです。カウンセラーの我が強く出るような面接になってしまう事で、「その人の時間」という意味が薄れてしまったり、「その人の気持ち」の方がわからなくなってしまうこともあるでしょう。カウンセラーが阻害・邪魔していることになります。これはカウンセラーの態度とは真逆になるのです。
この点は、下記ページで触れています。
逆に物足りない、何もしてくれなかった・・・がっかりだと感じる事も
カウンセラーの存在が薄れていく中で、よりよい方向に物事が動き出すことがあります。
しかし、一方でカウンセリングでなんのアドバイスもなかったと残念に感じる方がいることも事実です。これにはカウンセラー側の力量の問題やその他複数の要因があることと想像しています。
別項でまとめています。
投げかけられているイメージがある存在する
カウンセリングの定義は専門家の間でも定まりません。おおよそのところはあるにしても、定義している著作者自身が「一応現時点ではこのようにしておく・・・」などとする記述が散見されます。「定義はほとんど不可能である」とする人もいます。
どんな言葉で定義しても安っぽく感じてしまうところがあり、決めかねてしまいます。
現状、一般の方々は、様々なイメージをお持ちになって来談することになります。
これを、「そういうものではありません」とは言えず、<確かにそういう面もある・・・>と世の中のカウンセラーは受け止めているのではないでしょうか。
時間や料金場所、その外一般的な決まり事はあるにしても、基本的にカウンセリングの活用法は自由なのです。
つまり、それぞれのカウンセリングが存在するのです。
一体どういう目的で行われているものなのか
例えば、不登校の場合、まず多くの人が想像する目的は、学校に行けるようになることだと思います。
しかし、カウンセリングにおいては学校に行けるかどうかは本質的な話ではないように捉えます。何をしているかと言えば、不登校の意味を考えたり、その人らしさを深める作業とと言えるでしょう。結果的に登校できる場合も多々あります。ですが、当然、行かないという選択もあっていいわけです。
夫婦関係の場合も同様です。
仲の良い夫婦関係を必ずしも目指すわけではありません。世間からすると、夫婦は仲良くいつも一緒になどという捉え方が多くなるものですが、無理やり体裁だけ整えて良しとするのは誰もが疑問に感じるところでしょう。
どんな形の夫婦関係を目指していくかはその夫婦ごとに形が異なるものです。ですが、結果的に良い夫婦に見えるところに着地することも多々ある訳です。
性格についても、もっと外向的にならなければいけないと考える人は多いものですが、内向的な人を無理に外向的にしたらそれはいかがなものでしょうか。自己主張の訓練をして、発言力を増やすなどのアプローチをとることは稀です。むしろ、内向的な面を深堀していく中でその人らしい在り方が明確になるような展開になると思います。
ですが、内向的な自分に納得が行きはじめると、外向的な活動も可能となって来るものです。
このようにカウンセリングはいわば普通のようなところに近づくためのトレーニングではありません。むしろそれぞれの在り方を尊重し、深堀していく作業です。結果的に、適応的になっていくことも稀ではないわけです。
定義することはほとんど不可能とされている
先でも少し触れましたが、カウンセリングを定義することはほとんど不可能とされています。
我々は生活の中で自分で解決できない疑問や問題に直面したとき、誰かの援助を求めることがあります。
身近な話では、宿題の問題がわからないので友人に電話で教えてもらおうとする、とか道に迷った時にコンビニで道を尋ねるようなことである。
こういうことを我々は自然と普段の生活の中で経験してきているものです。
つまり、流れを記すと下記のようになります。
- 問題が生じる→自分では解決されない→他者に援助を求める→他者に助言や手助けを得る→問題の解決
中には学校の先生のように、宿題の一番大事な答えの部分だけは「自分で考えるように!」などと言って教えてくれないこともあるでしょう。
また、もう少し専門的な例を挙げれば、財産相続の手続きがわからないとき我々はそれを知っている法律の専門家のもとへ相談に行き説明を受けることもあれば、確定申告の細かい点を会計事務所に相談することもあります。
これらは正確な知識をもった人に聞くことで問題はだいぶ解消されるものであります。(もちろん簡単なことではないことは言うまでもなくです)
- 関連ページ:心理面接と因果論について
カウンセリングの場合はどうでしょう
さてカウンセリングの場合はどうでしょうか。
会計事務所に行けば、知りたいことは事務所の人側が調べてでも教えてくれることがほとんどでしょう。
カウンセリングにおいても知識や情報の提供ということであれば、同じような形をとることもできるとは思います。
しかしそれはカウンセラーのもとに訪れずとも解決することであったり、カウンセラーではない人が知っていることであったりします。
カウンセリングについては多くの場合、準備された回答がない問いかけであると言えないでしょうか。
そういう性質のテーマを帯びていることについては、辞書や専門書を広げても答えが書いてあるものではないわけです。多少の統計データのようなものや一般論は導き出せたにしても、どういうわけかカウンセリングの中ではそういう類の物が役に立つことは滅多にないような感じすらします。(データや一般論を題材にということであれば有用にもなりえるのでしょう)
そもそもは、心理的な苦痛を和らげるとか取り除くとか、医学的な文脈に沿ったものだったのでしょうが(そして現在もそのようなニーズがあることには違いなく)、どうやらそれだけでは物事は進展しないこともあり、非常に複雑で幅の広いものと捉えることになるのだと思っています。
心理療法序説(1992)の中で河合隼雄氏はほとんど不可能とした上で心理療法を定義しています。
また心理療法の原則を、自己解決、自己処理などと記した専門書もあります。
一カウンセラーとして、やはりその人にとってという視点が重要だと感じている。
それはアドバイスという風に観察される形を取った行為に見えるかもしれないものですが元々準備されたものではなく、対話の中に生成された「その人にとっての回答」ということになるであろうと思っています。
なかなか現代社会のコンビニエンスストアやチェーンレストランのようにはいかないものです。
カウンセリングとはこういうものですと、開き直るような態度はどうかとおもうところであるし、早ければとにかく良いというものでもないわけでありながらも・・・などと葛藤しながらそれでも援助の質を高め時代の要請に応えられるよう研鑽していくことが必要とされているのだろうと日々感じている所です。
あそこに行くとなんか・・・いい
ぼやっとした活用もあります。言葉では正確に言い表せませんが、それは、「あそこにいくとなんかいい」という具合の体験です。
この点については、ドラ・カルフの話が参考になるでしょう。成人の場合にも共通していえるエッセンスがあります。
又は、「何か他とは違った感じがした・・・」という体験もあります。
まとめ
カウンセリングの目的に触れてきました。これをお読みいただいても、まだまだはっきりしないことばかりだと思います。
冒頭の方で述べた通り、それぞれに求めている事が異なるためということもあると思います。
逆に、カウンセラーが望んで期待していることは、その人らしい進展や選択がなされていくことにあります。